夜。全てが闇に溶け、暗く、静かで、寂しい、皆が寝静まる時間。
そんな世界に、ギャラルホルンのけたたましい音が響く。
その音と共に、神の国の門前は緊張感を漂わせていた。
門番のヘイムダルと兵士達。そして、大剣を携え、黒一色に身を包んだロキが彼等の前に仁王立ちでいた。
「邪神ロキ。今日こそ、お前と決着をつけよう。私が、光の神バルドル様を殺した罰をお前に与えてやる」
ヘイムダルの話を聞いていたロキは冷たい眼で彼を見ながら、首を傾げ。一言。
「……君、誰だっけ」
ヘイムダルは身体を震わせる。ロキが自身の名を覚えていないことへの苛立ちと。ロキの携える大剣に対する驚きと恐れを、身体の五感全てで感じとっていた。
彼の武器であるレーヴァテインは、彼が作った偽物の長剣ではなく。正真正銘の、炎の巨人スルトが隠し持っていた武器、真っ赤に燃える大剣レーヴァテインであった。
兵士達の中でも、ロキの持つ武器に対し。
「あれはもしや」「やはり、邪神ロキは炎の巨人族と関わりがあったのか」「あの噂のスルトと……恐ろしや」「はじめから、神族を殺すために……殺さねば」「そうだ、殺さねば」「殺さねば」「我等の最高神の為に!」
と、各々がこの戦いの決意を更に固め合う。それら全てが彼の意思関係なく耳に入るも。
「どうでもいいや」
彼はいつものように、その口癖を呟く。
そうだ。彼にとってはどうでもよいのだ。何もかも、全て。相手が誰であっても。自身の事でどれだけ蔑まれようとも、罵られようとも。
どうでもよかったのだ。自分を愛してくれる人が居たから。耐えられたのだ。
「全て、終わるからな」
ロキが大剣を手に取り横に振ると、火の粉が飛び散る。火の粉は瞬時に草原へと燃え移り、火の蛇が蠢く。
それを合図にか、ロキの背後に控えていた巨人族が次々に飛び出し、兵士達へと襲いかかる。
ヘイムダルも怯まずにロキへと斬り掛かる、が。一度剣を交わらせただけで彼は気付き、絶望する。今の彼に、ロキを罰する事など出来ないということを。
その場は戦場と化した。
空から戦乙女達の援護が入るも、飛空艇に乗ってきたヘラの操る死者がそれを阻んでいく。
扉は激しい両者の戦闘によって破壊され、忌まわしく穢らわしい巨人族軍は、聖域である神の国へと踏み入る。
聖域であった神の国は、血の国へと塗りかえられていく。
神の国の影響は、他の国にも伝わっていた。地面が割れ、炎の国の火山が噴火し、暴風が吹き荒れ、海もヨルムンガンドが好敵手との戦闘で津波を引き起こしている。
多くの悲鳴が混じり合う空気の中。
「……ハハッ」
ロキは嗤っていた。
戦うことで、殺すことで、愉悦に浸っているのだ。哀しみを愉しさで塗りつぶそうとしているのだ。
愛する人が、復讐に囚われた自分を受け入れてくれなかった哀しみを。
どれだけ殺しても、その血や肉が、愛する友と愛する子を生き返らせる糧にならない哀しみを。
「ハハハッ!」
殺して嗤って殺して嗤って殺して嗤って殺して嗤って殺して嗤って殺して嗤って殺して嗤って殺して嗤って殺して嗤って殺して嗤って殺して嗤って殺して嗤って殺して嗤って殺して嗤って殺して嗤って殺して嗤って殺して嗤って殺して嗤って殺して嗤って殺して。
嗤って。
「……ぐふっ」
ロキの口からどす黒い血が溢れ出る。
神族や巨人族の死体が転がる地面へ、ポタポタ、と滴り落ちていく。
目線を下にやると、彼の腹に怨めしいほどに輝くグングニルが刺さっていた。ロキは震える足を崩し、膝と手を地面につく。
ある足音がゆっくりとロキの元へと近づいてきているのが聞こえたが、今の彼にそれから逃れる気力は無い。小さかった足音はだんだんと大きくなり、ロキの背後で止まる、と。
「つまらん。もう終わりか」
それは、オーディンの声だった。彼はグングニルに手をかけ、容赦なくロキの背から引き抜く。
ロキの口からは声にならない悲鳴を上げ、彼の背の穴からは血飛沫が舞い上がる。
「だが、それでいい。こんな戦い、すぐに終わらせなければな」
彼はロキの血を身体に浴びながら、再びグングニルの穂を彼の心臓へと狙いを定める。
「何か、言い残すことはないか」
ロキは息絶え絶えに、それでも一言一言ハッキリと、彼と目を合わせながら、言葉を放つ。
「アンタは……最高神でも、完璧な奴でも、ない……子供を、心から、愛さなかった……大馬鹿野郎で……クソつまらねぇ奴だよ、はじめっから」
ロキの言葉に、オーディンは「……そうか」と一言呟き、グングニルを持つ手に力を込める。
「さらばだ、ロ」
言葉は途切れた。
言葉の代わりに何かが折れ、潰れ、砕かれ、呑み込まれる音がロキの耳にねっとりと入ってくる。その異音にロキは背後へと目線を動かす。
彼の虚ろな目に映るのは、床に置かれ、血に染ったグングニルと。
「君が、殺ったのか」
「あぁ。とても不味かったな」
口が血だらけのフェンリルの姿だけであった。
最高神の終わりは、悲鳴を一つも、最後に言い残すことも、何も出来ずに、彼は死を迎えた。
「つまらないな、君の終わりも」
そう。死は、呆気ないのだ。その者がどんな功績を成し遂げようとも、死は平等にやってきて、いつの間にか終わらされてしまうのだ。
「フェンリル……っ」
彼に礼を言いかけたロキは、目に映る不思議な物に気付く。それは、フェンリルの尻尾にあった、光る玉の入った籠であった。
光る玉は、死の国で見たものと同じ類の物だろう。それは、籠の中でふわふわと漂っている。
それはどうした。なぜフェンリルが魂を持っているのか。その魂は、あの子なのか。
朦朧とした頭の中で疑問が飛び交うが、それを口に出す前にフェンリルが口を開く。
「ロキ。覚えているか、俺様が言ったことを」
フェンリルの言葉に、ロキは頷いた。彼の言ったこと、それは責任をとるということ。その責任の意味を、全てが終わったら話すことを。それが、今だ。
フェンリルは籠の中の玉を見つめながら、ロキに告げる。
「俺様は……ナルを、救えなかった」
その名を聞いた瞬間。ロキはガリッと自身の唇を噛み、モヤにかかりかけた意識を意地でもハッキリとさせる。
フェンリルは全て話した。
兄ナリを殺したのは、妹ナルであったこと。それは、神族が仕向けたもので、彼女は何も悪くないこと。けれど、それが彼女を追い詰めていたこと。
彼女に殺して欲しいと言われて、拒否をしたこと。彼女が死へと向かう歩みを、止められなかったこと。
それが、彼の負う責任であった。
全てを聞き終えたロキは、ただ一言「ありがとう」と告げた。
怒りでも、憎しみでも、殺意でもなく。感謝の言葉を、彼に捧げた。
フェンリルは彼の一言に驚き口を開けるものの、ロキはそのまま話を続けていく。
「君は、殺してもいいと言っていたけど……君の責任は……さっきのオーディンを殺ってくれた事、と」
ロキは彼の持つ玉を、震える指先でさす。
「その子を、あの子の元へ無事に送り届けたら……終わりにしよう」
彼の言葉に、フェンリルは数秒間固まっていたが、一呼吸し、深々とロキに一礼をする。
「では俺様達は……先へ逝こう」
フェンリルは籠をゆらゆらと揺籃のように揺らしながら紫の炎に迎えられ、姿を消した。
ロキはフェンリルが姿を消すのと同時に、身体全てを床へと委ねた。
彼の呼吸音だけが、その場に漂う。そんな中、彼から流れる血は止まることを知らず、ロキの灯火をぼやかしていく。
「もう、すぐだ、な……」
そう呟いた彼の周囲に、ぼあ、ぼあ、と炎が生まれる。
彼の周りだけではない、この世界全てが、唐突に炎で包まれていっているのだ。
死者は黙って灰に、空を舞い。生者は炎を消すことも出来ず、ただただ叫び声を上げながらのたうち回り、ごうごうとその身体が朽ちるまで燃えていく。
炎により、闇に染っていた空は夜明けの瞬間へと変貌する。ロキは身体を仰向けにし、その空をじぃと眺めていた。
これは、ロキの炎ではない。
「ありがと、父さん」
炎の巨人、スルトの炎だ。
ロキは父へ、最後に願ったのだ。自分の命が途絶え始めたら、この世界に炎を放って欲しい、と。炎はこの世界全てを燃やし尽くすまで消えることはないだろう。
それは、ロキも例外ではない。ロキは自身も炎に囚われ、皮膚が溶けだし、じわじわと蝕まれていっているというのに。
彼はなんとも心地良さげな表情で。
「ごめんな、父さん。貴方の願っていた事を叶えられなくて」
彼は謝る。
「すまない、バルドル。君を救えなくて」
か細い声で。
「悪かった。ナリ、ナル。君達の父親になってしまって」
乾ききった筈の、最後の一滴の涙を流す。
「……でも」
それでも強く。
「出逢ってくれて、ありがとう。産まれてきてくれて、ありがとう」
愛する者達に囲まれ、幸せに満ち溢れ、煌めいていた人生を思い返しながら。
「シギュン」
夕陽のように、暖かな眩しい笑顔で。
「愛してるよ」