9篇 邪神7


 ヨルムンガンドが「いってらっしゃーい」とこの場の雰囲気に合わぬ緩い声を背に受けながら、ロキとフェンリルは冷たく暗く長い階段をゆっくり、ゆっくりと降りていく。
 そんな中、手のひらほどの大きさを持つ白く光る球が二つ、ロキの周りをふわふわと飛び始める。
「ガルム、これはなんだ?」
「それは、魂です。最近亡くなった魂ですよ」
「魂? なんだってそんなものが……」
 死を迎えた者は、死の国では人の姿のままか小さな球の状態で次の人生の順番を待つ事が出来る。しかし、彼等が誤ってこの死の国から出ないよう、死者は入り口付近に来ることは許されず、奥深くに居るはずなのだが。
 今、ロキの周囲を飛ぶ二つの球は、それを破っている。それなのに、ガルムは彼等に何も言わないというのは、おかしな話なのだ。
「実はその魂達、妙なんですよね。何度言い聞かせても、我々使者の目をかいくぐって、入り口でジッとしているんですよ。出て行こうという気配はないので、監視をつけて入り口にいることを許可はしています」
「どうして……彼等は入り口に集まるんだ? 出ていこうとしないのに」
 ガルムは寂しげな眼で魂達を見つめる
「なんだか、誰かを待っているような……そんな感じで。実際に、命を絶った筈の魂一つがまだやってきていないのですよ」
 ガルムの言葉に、二つの魂が肯定の反応なのか分からないが、小刻みに縦に動く。
「きっと……その魂と縁があるのかもしれませんね」
 そんな話を聞いたロキは、自身の周囲を飛ぶその魂達のうちの一つに手を伸ばす。
「待ってる奴、来るといいな」
 差し出されたロキの手に、それは怖がることなく擦り寄った。その魂にロキは奇妙にもほんの少しだけ暖かみを感じとり、ロキの冷たく凍っていた顔は、少し溶け、その頬が緩む。僅かながら口角を上げて微笑みを見せた。彼の、久方ぶりの笑顔である。
 そうしているうちに階段が終わりを見せ、広場の真ん中にヘラが立っていた。彼女はロキと目が合うと、深々とお辞儀をする。
「お久しぶりですね、ロキ様」
「……あぁ。なぁ、ヘラ。バルドルの事で、ボクを此処に呼んだのか?」
 ロキの問いに、ヘラは頷いた。
「はい。貴方で最後のため、そしてバルドル様の親友であるため、此処に呼ばせていただきました」
「最後、か……。皆、バルドルを生き返らせることに賛成したんだな」
 親友が生き返る。そんな奇跡に等しい事が起きるかもしれないというのに、ロキの言葉は冷たい声音で出される。
「えぇ。皆、涙を流しながらバルドル様を生き返らせて欲しいと願いました。この世界全てに愛されているとは……流石、光の神バルドル様」
 ヘラはうっとりと頬に手を添えながら話すも、「でも……」と、とろけていた片目は鋭く光を見せる。
「私の方が愛してるわ」
 その言葉は、死の国が纏う冷たい空気よりも遥かに冷たいものであった。
「だって、上に住む方達はバルドル様の何を知っておられるのでしょうか。知らないでしょう、何も、何も知らない! 彼が今まで何に耐えてきたのか!」
 ヘラはわざとらしく、声高々に叫ぶ。
『ああ、我らの神よ! 我らの光よ! 純粋で、真っ直ぐな我らの光の神よ! どうか我等を未来永劫照らし、導いてくだされ!』
「……これが、どれだけ彼にとっての重荷であったか。彼等は知らない。鋭利な武器よりも言葉が、人を深く深く傷つけられるのだという事を。だから私は、上の方達よりもあの方を愛しているの。……それなのにバルドル様は、そんな彼等に対して優しく、等しく愛され、辛い姿を皆には見せなかった。自分は最高神の息子だから。光の神だから。皆を照らさねばならないから。それが、自分の生きる使命だから。……なんてお優しい方なのかしら、尚愛おしい。……それでも、その重圧に神であろうとも耐えられるものではない。だから彼は……自分をただのバルドルとしか見なかった親友に、それを話した。ね、ロキ様」
「……あぁ」
 ヘラの話に、ロキは脳裏に漂う記憶を掘り起こす。バルドルと親友となったあの日の言葉を。

『ロキ。君は、君だけは。どうかずっと友のままでいてくれ』

「そう。貴方も私も、バルドル様の事をよく知っている。だからこそ、バルドル様を生き返らせてほしいと望めるのは……本当なら貴方だけなんですよ、ロキ様」
 ロキに対し、ヘラはにっこりと悪戯な笑みを向ける。
 今の今まで集めてきた数多の種族の言葉など、どうでもいい。意味がない。神族に『バルドル様を生き返らせてほしい』と願いを持ってこられた時から、彼女はそう決めていたのだ。
「もし貴方が、バルドル様が生き返ることを願われるのであれば、バルドル様はすぐにでも死者から生者になります」
 ヘラは一歩一歩、ロキへと近づく。
「私はそれを否定も拒否もしません。でも……親友の貴方なら」
 ヘラはロキの目の前で手袋を脱ぎ、彼の顔に触れる手前で止める
「答えはもう、分かりますよね?」
 そうだ、彼女は分かっていた。分かっている、と嘘をついているのだ。いや、そうさせたいが為に出している言葉なのだ。ロキに自分の望む答えを、貴方も親友を思うのならその答えしかないだろう、と脅しているのだ。
 彼女はバルドルを愛している。愛して愛して愛して、愛しているから、生き返らせたくないのだ。彼を苦しませる世界ではなく、自分の棲む暗く冷たい世界に、愛しくて愛しくて堪らないバルドルをいさせたいのだ。共に、愛し合うために。
「さぁ、どうされますか?」
 親友を、生き返らせるか、らせないか。
 ロキは、ヘラから目を逸らさず。真っ直ぐ見つめ、口を動かす。
「答える前に……バルドルと話すことはできないか?」