9篇 邪神6


 アングルボザの言葉に驚き、声を上げられずにいるロキ。そんな彼に更に言葉を投げようとするアングルボザであった、が。
【邪神ロキ様】
 彼等の周囲に、青い炎と黒い影が舞う。死の国の女王ヘラの使者が現れる。
【ヘラ様がお呼びです】
 それから、無機質な声がロキへと向けられる。
「あら、死の国の女王からわざわざ呼び出しだなんて」
「どういうことだ?」
「さっきの話の続きね。神族は、死の国の女王ヘラに願ったのよ。バルドルを生き返らせてくれって。そこでヘラは条件を出したのよ。この世界全ての者が、『バルドルを生き返らせてほしい』と願ったのなら、そうしようってね」
 アングルボザの話に、ロキは顔を歪ませながら「君も、願ったのか?」と問いかける。それに対し、彼女はにっこりと微笑んだ。
「えぇ! これからの戦いにバルドルという光は、神族や特に最高神オーディンには必要よ! 復活したバルドルを、再び目の前で殺して、希望を失った瞬間にオーディンを、っ!」
 彼女が全てを話し終える前に、その首にロキの手が伸び、彼女の細首がじわじわと締めつけられていく。
「あらぁ、ごめんなさい。怒っちゃった? 殺す? 殺したい?」
 首を絞められ、苦しげな表情を見せながらもアングルボザは楽しげにしている。
「いいわよ。殺しても! 私、貴方に殺してもらえるのなら、本望だわっ!」
 気味の悪い狂った笑みを見せ、興奮した様子のアングルボザに、ロキは冷たい眼で睨みつけながら。彼女の首から手を離した。
 痛みから解放されたアングルボザは、咳込みながら残念な表情を見せた。
「なんっ、でっ」
「ボクに殺されるのが本望なら……ボク以外に殺されてくれ」
 ロキはそう言い放ち、一歩下がると。それを了承と捉えた使者達は、自身の影をロキに巻き付かせた。ロキの目の前が青黒いものに埋め尽くされる。
 その一瞬。彼は、死の国の入り口に立っていた。
 世界は、いつの間にか夜に包まれようとしていた。今でさえ暗く沈んだ世界が、更に闇へと溶けていき、毎夜毎夜、闇は濃くなっていく。昼間は鮮やかな水色をしている海は、深く深く、ねっとりと、その闇を映している。
 そんな海を眺めていたロキに。
「来たな、ロキ」
「ヤッホー、ロキー!」
 そこで待っていたであろうフェンリルとヨルムンガンドが、話しかけてきた。
「フェンリル……シギュンは」
 ロキは初めの言葉として、それを選んだ。彼女の名を呼ぶ声だけは、温かな声音が混じっている。ロキの問いかけに、フェンリルはゆっくりと話し始めた。
 あの場から離れ、シギュンを無事に森の奥へと連れて行った後、シギュンはエアリエルとフェンリルの手を借りて兄妹の墓を建てた。そして、使者を呼び出し、ナリの魂のみを死の国へと送ったのである。無事に儀式を終えたものの、シギュンはそこから動かなくなったため、彼女のことはエアリエルに任せ。
「俺様は、貴様を探していたのだ。ロキ」
「なぜ?」
「言っただろう。責任を果たすと」
 そう、フェンリルはロキが神族に復讐を決意した時にもついてきた。彼自身に神族への恨みがあるわけではなく、ロキに対して、見えぬ責任を果たすべくという理由でだ。
 ロキは結局、フェンリルの口からその責任の意を聞けていない。聞いても無駄であると分かっていながらも、フェンリルの心の中で重くのしかかっているそれに、ロキは片足を踏み入れようとする。
「その、責任ってなんだ。君の抱えているそれは、ボクと何か関係があるのか」
 ロキの問いに、フェンリルは重く頷いた。
「……何もかも終わったら、全てを話そう。その時、貴様は……俺様を殺してくれてもいい」
 納得の出来ないフェンリルの言葉と態度に、ロキは彼に更に深く問いただそうとするものの。それはヨルムンガンドの声で遮られる。
「ねぇ、ロキ。これから大きい戦いが始まるの? あの、つまらない時代がまた始まるの?」
 ヨルムンガンドの問いに、ロキは低い声で「……あぁ、そうだな」と答えた。それに対しヨルムンガンドは特に落胆することなく「そっかぁ……」と納得した様子を見せる。
「じゃあ、今度トールに宣言しなくちゃ! その時は命をかけて戦おうって! ロキも、ボクちゃんとトールが戦えるように誘導してよねっ!」
 ヨルムンガンドの話に、ロキは全く動揺の顔を見せず「恋愛ごっこはもういいのか?」と聞くと、彼はこの場の雰囲気に合わぬ元気さで「うん! もう充分!」と答える。
「それに、トールも元々僕ちゃんを敵視してたし、鬱陶しかっただろうし……いい機会なんじゃないかな!」
 それに対しロキは小声で「トールは、そこまで器用な奴じゃねぇけどな」と呟いた。
「でね! もしその大きな戦いがあるんなら、戦う相手は僕ちゃんとじゃないと! トールが誰かと戦って、傷ついて死ぬなんて許さない! トールは僕ちゃんと戦って死んでくれないと! それが、僕ちゃんのトールへの愛だよ!」
 ヨルムンガンドの言葉に、ロキは「……そうか」と深く突っ込むことはしなかった、が。フェンリルだけはその言葉に、酷く動揺を見せている。
 そんな話をしていたロキ達の目の前にぬるっと黒い空間が現れると、ガルムがそこに座っていた。ガルムはロキへと頭を下げる。
「邪神ロキ様。お待ちしておりました。ヘラ様と……バルドル様の魂がお待ちです」
 ガルムの言葉に唾を飲んだロキは、重い足を動かし、死の国の階段へと足を伸ばすのであった。