9篇 邪神4


「ノルン様はあのオーディンという者が嫌いなのですか? あんなに貴方の本体である世界樹を崇め、大事にしているのに」
 そう、オーディンは世界樹とその周辺の大地全てを天空へと置き、そこを神の国として直々に管理し、新たな種族達に世界樹を崇めさせているのだ。彼は、世界樹の絶大なる信仰者なのである。
 ノルンは自身の髪を指に絡め遊びながら、話し始める。
「いや、あの小僧のことはユミルの子にしては気に入っていたよ。未来を視れなかったから、此奴ならどんな面白い事をするのかと気になってな。知識を色々と与えてやったさ」
 彼女のその言葉に、スルトはあからさまに眉間に皺を寄せて不機嫌になるものの、そんな表情に気づかぬままノルンは話を続ける。
「奴はユミルを殺した。そして、新たな王に、最高神となった。あぁ、面白い。とても面白いさ! だがな……アイツは憎んでいた奴らと同じような事をしている事に気付いていない。面白くなくなってしまったよ、アイツは」
 ノルンは怒気混じりに話し切ると、「関わらなきゃ良かった」と小さく呟いた。そんな呟きが聞こえなかったスルトは、「けれどノルン様」と新たな問いを投げる。
「相手を嫌うのは仕方ありませんが、世界は良い方へと向かおうとしております。それだけでも良いのでは?」
 スルトの言葉に、ノルンは呆れ顔で「分かってないな」と呟く。
「良い方へ風が吹くということは、どこかで悪い風が吹くということだ。そして、その悪い風はいつかはその良い風をじわじわと飲み込み、殺すのだ」
 そう話し切ったノルンは、上空に浮かぶ自分の本体と神の国を悲しげに見つめる。
 それ以降、ノルンがこの国にやってくる事はなかった。度々、ノルンに似た者を見かけてはいたが、スルトが話しかける前にどこかえと消えてしまった。
 そうして、再び年月が過ぎ。世界は最高神オーディンの働きかけにより、多くの種族が助け合って生きており、その光景は鮮やかに幸せに色付いていた。その光景を、スルトは炎の国から出ず、そこからずっと暗闇を照らす灯りのように見守っていた。
 しかし。
「炎の巨人族、スルトよ。憎きオーディンを共に殺そうぞ」
 ノルンの言う通り、世界に小さくも悪い風が吹き始めた。
 ユミルの死によって絶滅したとされていたユミルの子は、男と女の一組だけが生き残り、隠れ生きながら新たに巨人族となって一族を復活させたのだ。
 巨人族は、ユミルを殺したオーディンを憎んでいる。殺したいほどに、憎んでいるのだ。だからこそ、力を蓄え、来たる日を待ち侘びているのだ。
 スルトはそれに対し、こう返答した。
「断る」
 当然だ。彼等巨人族、もとい霜の巨人族になぜかスルトは同族で炎の巨人族とまで命名されているものの。スルトはユミルから生まれていない。
 だからこそ、ユミルが殺されてもなんの恨みも彼は持ち合わせていない彼が、オーディンを殺す戦いに参加する理由が無いのだ。
 しかし、霜の巨人族はそれを認めなかった。許さなかった。必ずオーディンとの戦いに加わってもらう、と彼等はスルトに戦争を仕掛けるのである。
 スルトは戦いが好きではなかったが、生きるために仲間達と共に巨人族と殺し合いをした。してしまったのだ。
 最後に、燃え盛る炎に埋もれる巨人の国に立っていたのは、スルトだけであった。
 仲間を失う悲しみ、同じ魂を持つ者を殺す悲しみ。それら全て、スルトが今まで味わう事の無かった負の感情が、彼の心に深い穴をあける。
 そんな彼の目の前に、死にかけの少年が横たわっていた。スルトは膝をつき、少年を優しく抱えあげる。少年の息は薄く浅く、乱れている。目も焦点が合っておらず、彼に与えられた選択肢は一つしか無かった。
「スルト」
 少年を抱えていたスルトの背後に、ノルンが現れた。彼女は幾百年ぶりに姿を見せたというのに、変わらぬ姿と威厳ある鋭い眼で、炎に包まれた国を見渡す。
「これは……貴様がやったのか?」
 ノルンの問いかけに、スルトはゆっくりと重く頷く。それを見た彼女は「そうか……お前までも巻き込まれるか」と悲しげに呟き、目線をスルトの抱える少年へと向ける。
「それ、どうするんだ? 楽にさせてやるのか?」
「違いますっ! この子は……この子は……」
 スルトは優しくもギュッと少年を抱きしめる。スルトの身体に少年の血がベットリとつくものの、今のスルトにはそんな事はどうでも良いことであった。
「助けたいか?」
 ノルンの希望の言葉に、影を差していたスルトの表情に僅かな光が当てられる。
「どうするれば良いのですか?」
 スルトが詰め寄るのを抑えながら、ノルンは彼の腕を掴む。
「血を分けてやれ。そうすれば、私の術でどうにか魂を繋げるさ」
 ノルンはスルトの肯定の言葉を聞かぬまま、傍に落ちていた短剣を拾い、スルトの屈強な腕に刃を斬りつける。たった一切りであったものの、その浅くもなく小さくもない傷口からスルトの赤黒い血が、地面へと置いた少年の腹へと滴り落ちていく。
 数分後、ある変化が起きた。
 スルトから血を与えられている少年は、依然として苦しげな息を上げているが。その少年の髪色が、黒からスルトと同じ鮮やかな橙色へと染まり変わったのだ。
 そんな変化に驚いていたスルトに、ノルンが声をかける。
「スルト。この少年が生き返ったら、貴様が育てなさい」
「えぇ、それは勿論。……けれど、人ではない者に人の真似が出来るでしょうか」
「やりなさい。……そして、この少年にロキと名づけるんだ」
 《ロキ》。その名を聞いたスルトは首を傾げた。
「けれど、ノルン様。この少年には既に名があるのでは?」
「なら、選ばせればいい。昔の名のままで生きるか、新たな名を背負い生きるか、を」
 ノルンの言葉にスルトは素直に頷きながら、彼女にもう一つ問いを投げかける。
「ノルン様。その名にも、意味があるのでしょうか? 我が名、スルトの黒い者といったように」
 その問いに対し、ノルンは微笑むのである。
「【終わらせる者】だよ」

***

 全てを話し終えたスルトは、一度深呼吸をする。
「ファヴニールにお前を連れて来させたのは……お前の言う通り、教えてもらったからだ。先程、ノルン様に」
 全てを聞いたロキは。
 怒ることも、悲しむことも、なんの感情も表に出さず。ゆっくりと深呼吸をし、声を振り絞る。
 それと同時に、暗い空に光が現れ始める。未だ晴れず暗く雨が降り続けるロキの心を知らず。
「父さん。ボクの願いを、聞いてくれ」
 世界の、夜が明ける。ロキの、覚悟と共に。