9篇 邪神3


 そうして重く暗い空を飛んでいたファヴニールが、目的地である炎の国へと降り立った。彼が降り立つと、慌てた様子のスルトとシンモラが彼の傍へと駆け寄った。
「ファヴニール、よくやった。……ロキ」
 スルトが、未だファヴニールの背中から降りぬ我が子の名を呼ぶ。シンモラもファヴニールの背に乗り、ロキに呼びかける。が、彼はなんの返事もせず、ファブニールの硬い背中に顔を埋めて、黙っているだけであった。
「ロキ。……大丈夫か?」
 スルトは、優しく彼に声をかけた。彼は、何も話さない。シンモラが彼の頭に手をかけようとした、が。
「やめてくれ」
 それを、怒気の含んだ声を出し、手で振り払った。その拍子に上げられたロキの顔は、この一瞬で酷くやつれていた。そこに、いつもの陽気名彼は居ない。
 そんな彼の状態に心を痛めるスルト達にに、「なんで」とロキは声をあげる。
「なんで、呼び出したんだ? しかも、あんなタイミングで」
 そのロキの問いかけんい、スルトは目を逸らしながら「嫌な予感がしてな」と返した。しかし、それは。
「嘘だな」
 ロキは、見抜いてた。いや、もしもそうでなくても、そうであっても、ロキはスルトに聞かなければいけないことがあるのだ。
「こうなるって、誰かから聞いてたんだろう? 例えば……ストーリーテラーって奴から」
 ロキの口から出された単語に、スルトの大きな図体が強ばる。
「教えてくれよ。父さんの、知っていることを。アイツは……シギュンに似たアイツは、何なんだ?」
 ロキが詰め寄ると、スルトは一度深呼吸をしてから「あぁ、話そう」と拳をギュッと握る。
「あの方は……ノルン様は、寂しいヒトなのだ」

***

 熱く、熱く、熱く。赤と橙が混じり合いながら蠢くソレは。
 暗い、暗い、暗い。星というものが存在しない空でもなんでもないものへ。
 荒ぶる姿と違って、優しく温かな光というものを与える。
 この世に、炎が生まれた。そして。
「やぁ。貴様、名をなんという?」
 炎の男と、銀色の髪と瞳を持つ女との出会いであった。
 その女の髪は長く、身体全てを包み込めるほどに長い。瞳は全てを見透かされる程に鋭く、見惚れてしまうほどに美しいものである。
「名をまだ知らぬか。ふむ、黒い肌を持つ者か……ならば、あれだ。貴様は、スルトだ」
「す、る、と?」
 スルトと名付けられた男が、自身の名を口にすると女はうんうんと微笑む。
「素直だな、スルト。傲慢で強者しか認めぬ頭の硬い、ユミルやその子供達とは大違いだ! 気に入った! 私は今から、生まれたばかりのお前に色々と教えをやろう」
 そう言われても、生まれたばかりのスルトの思考は、この状況についていけずにいた。おどおどとしながらも、スルトは彼女の言葉に頷いた。
「うむ。スルト、私の名は……あぁ、なににしたんだっけ。そう……ノルンだ」
 そうして、スルトはノルンから言葉や自身の力の使い方を教えられ、生命として生きる術を身につけていく。
 そして、彼女と彼女が根を張る世界のことも。
「この世界に今居るのは。冷たい氷と熱い炎。そして、その炎から生まれた貴様と氷から生まれたユミルとその子供達。そして、この世界である私だ」
 最後の言葉をスルトは理解が出来なかった。それを見抜いたノルンは、とある場所を指差す。彼女が差した場所は、この世界の中央に存在する樹、世界樹であった。
「あれは、この世界を支えるものであり、見守るものであり、記録するものであり……私の本体だ」
 スルトが首を傾げ続けるのを苦笑いを見せながら、ノルンは話を続ける。
「話しただろう。あらゆるものに魂は存在する。貴様だってそう、炎にも魂があり、偶然にも貴様はこのように具現化された。私という存在も、あの本体の魂が偶然にも具現化されたものなのさ。分かるかい?」
 ノルンの説明に、スルトはぎこちないものの首を縦に頷かせる。
「きろく、とは、なにを?」
「もちろん。世界で起こる出来事全てを記録するのさ。これを、私はストーリーテラーと名付けているな。語り部、という意味だ」
「それをして、なんの、いみがある、のでしょう」
 スルトの問いかけに、ノルンは「意味、か」と首を捻る。
「意味なんてものは無いだろうな。それが私という存在の役目であるから、それをするだけだ」
 そう言ったノルンだが、「けれど……そうだな。意味をつけるなら……」と自身の役目に関して、今まで考えもしなかった意味を見出そうとする。
 少し考えてから彼女は、ほんの少し寂しそうに。
「見返す時が来るかもしれないからかな」
 と、呟いた。ノルンのまたも理解が追いつけぬ言葉に、スルトが首を傾げるも。
「いや。ここで生きる貴様が、分かろうとしなくていい」
 と、彼女は寂しい笑みを浮かべたまま、その言葉の意味を語ろうとはしなかった。
 それから、幾つもの年月が流れた。スルトは同じく偶然炎の中にあった魂が具現化された仲間達と共に、火花が散る音を楽しみながら、度々スルトの炎の国にやってきて決闘を申し込んでくるユミルの子を、国の周囲に炎の壁を張って追い払う日々を過ごしていた。
 そんなある日、ユミルが死んだ。
 ユミルは自身の子供達に殺され、その亡骸はこの世界に新たな大地を、川や海や湖、雲や空を創られた。その影響かは分からぬが、火の国の火花が暴れ出し、それは星となって世界を炎の代わりに照らし始める。
 ユミルを殺した者達の一人であるオーディンは、生まれた大地に人間族から始め、新たな種族と国を創っていき、種族の頂点に立つ神族となって、最高神と名乗るようになった。
 スルトが過ごしてきた炎の音と氷の音しか存在しなかった世界が、日に日に姿を変えていくのを彼は心を踊らせていた。世界が変わろうとしている。しかも、良い方向へ。スルトはそう確信していた。
 しかし。この事態を、いつ見ても姿が変わらぬノルンは気に食わないようであった。