8篇 愛が死んだ日6


 濃い霧のどこかから、ナルにとって聞き覚えのある声が響く。その声を聞いた彼女は咄嗟に立ち上がり、今まで守っていた兄の傍から離れる。
「ちょっと。どこ行くのん? お仲間さんでしょ?」
 いつの間にか木の上へと登って、姿を隠しているアングルボザ。そんな彼女からの問いかけを、ナルは答える事なく霧の中へと姿を消す。
 彼女は走った。
 エアリエルがナリを見つけ、悲痛な叫びをあげる声を背に受けながら、獣の脚で地面を蹴っていく。
 彼女は走る。
 誰も踏んでいない雪の上を必死に、大切にしていた兄とお揃いの耳飾りが走る反動で外れてしまったことにも気づかず、霧で埋もれた視界を掻き分けていく。自身の内側で渦巻く感情に耐えるために暴れているかのように。
 走って。
 走って走って走って。
 走って走って走って走って走って。
 走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って。
「どこに、いくんだ」
 凛とした声が、彼女の脚を止める。
 ナルの脚が止まるのと同時に、その一帯の濃い霧がだんだんと薄れていく。薄まった霧に彼女より一回り大きな狼の影が映し出される。霧が完全に無くなると、ナルの瞳にその影と声の主を映す。
「……フェンリルさん」
 ナルは悲哀な声で彼の名を口にした。その拍子に彼女の瞳から一雫の涙が顔につたう。
 それを目にした彼は、ゆっくりとナルの傍へと近づこうとするものの、それに合わせて彼女は彼から距離をとろうとした。そんな彼女の様子にフェンリルは近づくことを諦めたのか、自身の脚を止める。
「その姿は、どうした」
 フェンリルはナルの姿について疑問を投げた。それに対してナルは、ゆっくりと口を開き「どうして」と返す。
「どうして、私だって……分かったんですか?」
 彼女の戸惑いも当然のものだろう。今の彼女は、彼の知る人の姿ではなくフェンリルと同じ狼の姿だ。その質問返しに、フェンリルは鼻で笑った。
「どうして? そんなの、分かって当たり前だ。貴様とは……長い付き合いなんだからな」
 フェンリルは普段の冷たく凛とした声と違って、優しく温かな声を出す。そんな彼の言葉に、ナルは彼にゆっくりと微笑んだ。そんな彼女の和らいだ表情を見たフェンリルは、少し歩み寄る。
「さぁ、帰ろう。風の女も貴様の兄貴を探してる。共に、その帰りを待とう」
 フェンリルの言葉に、ナルは身体を震わせる。彼女は小さな声で「……それは、出来ない……私は、帰れない」と呟く。その声を拾ったフェンリルは、首を捻る。
「? どういうことだ? ……その姿だからか? 気にする事ないだろ。事情は……今、話したくないならそれでいい」
 ナルは落ち着いた声で「フェンリルさん」と彼の名を呼ぶ。
「なんだ」
「お願いが、あるんです」
「願い? 元の姿に戻るのなら、エッグセールに話をつけてやれるぞ。だから……帰ろう」
 ナルは、首を縦には振らなかった。そして、彼にある言葉を放つ。
「私を、殺してください」
 それが、彼女の願いであり決意であった。
 フェンリルは彼女の言葉に目を丸くさせたまま、「ふざけるな!」と上ずった声でナルに赫怒する。
「それが貴様の願いか! それを、なぜ俺様に願う!」
 フェンリルは怒りと共に、ナルの元へと詰め寄る。
「言え! 何があった! その姿になったのも! 貴様がそんな決断をしたのも! 理由があるんだろ!」
 ナルは険しい表情で、フェンリルに話をした。ヴァン神族達に命を狙われていた事を、自分が狼になってしまった事を、自分が兄を噛み殺してしまった事を。自分が味わった、恐怖と悲しみと憎しみを。
 ナルの話を聞き、曝け出された彼女の内なる負の感情を受け止めたフェンリル。彼は優しく「貴様の意思じゃ、ないんだろ?」と問う。それに対し、ナルは強く頷いた。
「それでも……それでも私は!」
 ナルは自身の尖った牙をギリッと噛み締める。
「兄さんを殺してしまったんです! この牙で! 兄さんの身体を貫いた! 兄さんの心臓を止めた! 私は……兄さんを守れる人になりたかった……それなのに、私が兄さんを殺した! だから……私は、生きてても意味が……」
 鋭く光る銀色の瞳から、大粒の涙が溢れ出る。その涙を拭えずにいるフェンリルは身体を震わせながら怒気を発する。
「それなら俺様がっ!」
「……ごめんなさい」
 ナルはフェンリルの言葉を最後まで聞かず、彼女は何度も何度も彼に、いや、此処に居ない兄に対して、か。
 ナルは再び濃くなっていく霧の中へと姿を消していく。
「戻ってこい! ……ナルっ!」
 フェンリルが彼女の名を呼び、追いかけようとするものの、霧がまるで生きているかのようにフェンリルの行く道を阻む。「行かせてやれ」と言わんばかりに。
 彼女は再び走る。
 走って走って走って。
 走って走って走って走って走って。
 走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って走って。
 止まった。
 今度はあの凛とした声は無く、彼女は自分の意思で止まった。彼女はゆっくりと空を見上げると、空には煌びやかな月が彼女を見守っている。
 彼女の、最期を。
「×××××」