8篇 愛が死んだ日5


 愛する兄の血が匂いが、口を伝ってひたひたと、鼻を伝ってさらさらと、彼女の中へと入っていく。その感覚、獣による本能、獲物を狩り、血肉を喰う、そんなもの彼女にとっては気持ちの悪いものであった。
 なぜなら彼女は人だから。催眠が解け、獣から人へと正気を取り戻したから。彼女は彼の妹だから。彼は彼女の兄だから。愛する兄の声が、死にかけの声が、掠れた声が、妹の名を何度も何度も呼んだから。
「な……る」
 けれど、遅かった。
「ああああああああああ!」
 ナルは目の前に広がる赤色の光景に、驚きのあまり口から兄を放し、地面へと落としてしまう。ナリは受け身も取れぬまま、そのまま傷だらけの身体が地面に叩きつけられる。
 牙は彼の身体の奥深くまで突き刺さっていたのか、彼の身体から血が止まることはなく、その地面を赤い彼岸花が咲く場所へと彩っていく。
「……に、い、さん」
 ナルの血で濡れた口が動く。そこで彼女はようやく自身の身に起きている事を把握する。靄がかかっていた記憶と意識がハッキリしていくのと同時に。彼女にこの血で染まった現実を、深く深く突き刺していく。
「兄さん……兄さん! 兄さんを、傷つけた! 私が、兄さんを傷つけた! 私は! 兄さんを守れる人になりたかったのに! 強くなりたかったのに! どうしてっ! なんでっ! 私が兄さんを傷つけてしまったのっ!」
 ナルの瞳に、大粒の涙がボロボロと零れ落ちていく。涙は血の花畑へと吸い込まれていく。そして、ナリの顔にも。
「ごめんなさい」
 ナルの口から、哀感を帯びた声がその言葉を出す。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 何度も。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 何度も何度も。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
 何度も何度も何度も、彼女は謝った。謝るしか出来なかった。彼に謝るしかなかった。そして、今まで兄として彼を愛していた自分に謝るしかなかった。
 息をするのも苦しげなナリは、動かせる僅かな力で彼女へと懸命に手を伸ばす。しかし焦点の定まらない目は、狼となってしまった妹を見ることは出来ず、彼女の頭を撫でるための手は届かない。彼女に、兄の温もりを与える事が、もう出来ないのだ。
 そんな彼等の傍へと、男神が近付く。彼は、ナリの使わなかった剣を手に取り、構えた。構える先は、ナリの心臓。
「はぁ。兄妹の殺し合い、腹ん中にある臓器がぐちゃぐちゃに引き摺り出されるほどの、面白いものが観れると期待していたんだが……残念だよ」
 彼は今までの彼等に対する憎しみを両手に込め、剣を下ろす。のだが。
「なっ!」
 彼の剣はナリの心臓へ届かず、ナルの牙によってふせがれたのだ。
「貴様も、兄貴の息を止めてから殺ってやるよ。……なんだよ、その目は」
 彼女の悲しみを通り越した、憎しみと怒りの混じった銀色の瞳で、男神を睨みつける。
 彼女の中に渦巻く負の感情、彼等に対する怒りが、憎しみが、怒りが、憎しみが、怒りが、憎しみが。
 そして自分に対する怒りが、怒りが、怒りが、怒りが、怒りが、怒りが。
 その感情を。ふせいだ刃を咥える強靭な牙に込め、彼女は噛み砕いた。
 空いた口を縦長に大きく開け、男神の頭から躊躇なくかぶりつく。しかし、彼女はソレを噛み殺す事はせず、口に咥えたまま勢いよく吹き飛ばす。吹き飛ばされた男神は、ここに置いてある石へと衝突する。それにより石に亀裂が走り、それは周囲にある石全てへと伝わってそこに大穴を生み出す。その大穴からは、白い月明かりが鬱としたそこへと差し込んでいる。
 一瞬の出来事に、男神についてきていたヴァン神族が呆気にとられていると、彼等の頭に彼女の吠え声が鳴り響く。彼女は傍で横たわる兄の身体を優しく咥え、生み出された穴へと一歩で飛び出した。
 動けずにいた者達はようやく現状の理解に追いつき、まだ生きている男神を助ける者と、逃げた兄妹を追う者とで別れた。
 それを眺めるだけであったアングルボザは、兄妹を追った者達とは逆の方向へと進んでいく。霧が濃く漂う森の中へと、恐れることなく進む彼女。ふとピタリと立ち止まり、「ねぇ」と声を出す。
「この霧、貴方が出してるの?」
 アングルボザはその言葉と共に、片手を形の保たない霧に向かって殴る。それによって生まれた風が、周辺の霧を分散させた。
 そこには、狼のままのナルと彼女に温められているナリがいた。
「まるで、貴方達を守るために現れたように感じるわね。自然に、愛されているのかしら」
「……知らない」
 ナルの答えに、アングルボザはそっけなく「そう、残念」と返した。
「殺さなかったのね、あの男神を。どうしてか聞いてもいいかしら?」
「……なぜ?」
 アングルボザの話に耳を傾けながら、尻尾で動かぬナリを撫でる。
「なぜって……アイツ等、貴方に兄殺しをさせたのよ? 憎いでしょ? 今の貴方なら、あんな奴等ひと暴れでもすれば一瞬で片付くわよ」
 アングルボザの言葉に、ナルは目を伏せる。
「……それでも、私は貴方達を殺しません。貴方達を殺しても、兄さんは生き返らないのだから」
 ナルは自身の顔を、兄の顔に擦り寄せる。その瞳に、涙を浮かべて。
「……貴方は、殺さないんですか?」
 そんな兄妹の様子をじっと見ているアングルボザに、今度はナルから問いかけをする。
「殺したいんでしょ? 死なせたいんでしょ? 父さんを、悲しませるために」
 光が無くなった眼で、アングルボザを見るナル。その眼を真っ直ぐに見つめる彼女は、悪びることなく「えぇ、そうよね」と返す。
「私の目的は、ロキが悲しむ為。だから貴方達が死ぬのは嬉しいことよ。でもね、これは『神族』がやったことが重要なの」
 ナルは彼女の言いたい事が理解出来ずにいる中、そのまま話が続けられる。
「で、目的の半分は達成された。あとは、あの神族達の目の前に貴方を差し出して殺させようと考えたけれど……」
 アングルボザは再びナルの瞳をじっと見つめる。負の感情が渦巻くその瞳を。
「貴方……もしかして」
「ナリ様! ナリ様、どこにおられるのですか!」