7篇 絆が崩れた日4


 暗い。暗い。暗い。
 灯りが一つもなく、地上では想像も出来ないほどに汚らしくジメジメとした地下牢。その奥深くに邪神ロキは幽閉されていた。
 そんな場所で、ロキは腕を鎖で吊り上げられ、身動きの取れない状態でいた。そんな状態で十分に休む事も出来ず、朦朧としていく意識の中。
 一つの灯りが、ロキの顔を眩しく照らす。
「ロキ」
「……シギュン」
 彼の最愛の妻、シギュンがそこに居た。
 ロキが拘束されたという報せは、妻であるシギュンにもすぐに届けられた。シギュンは共に来たトールに牢屋の鍵を開けてもらい、ロキを強く抱きしめ、涙を流す。彼はそんな悲しむ妻を抱きしめることが出来ず、彼女の頭に、自分の手の代わりに頬をすり寄せる。 
 そんな彼等を、トールは見つめながら顔の愁色を濃くしている。そんな彼に、ロキは話しかける。
「……なぁ、ナリとナルは」
 子供達のことを案じるロキに、トールは「心配するな」と話す。
「彼等には監視がつくことになった、それだけだ。彼等が傷つくようなことは無い。それに……」
 トールは拳を強く握りしめる。
「犯人は、必ず俺が捕まえてみせる。だからそれまで、辛抱してくれ」
 トールの言葉に、ロキは弱々しくも彼に笑みを見せた。それでも、ロキは目線を一度彼から逸らし、険しい表情で再びトールと目を合わせる。
「……なぁ、トール」
「なんだ」
「もしボクがこのまま処刑されても」
「そんなこと!」
 ロキの言おうとする言葉を、シギュンは彼の肩を掴む両手を極度に震えさせ、怒気を含ませた声で遮った。
「そんなこと! 言わないで!」
 ロキはそんな彼女の言葉に、唇をギュッと結ぶ。
「もしもの話だよ、シギュン。……もしも、そうなってしまった時。子供達や妻も罰を受けることがないよう……守ってやってくれよな」
 それの答えに、トールは深く頷いた。

◇◆◇

 ロキが牢屋に入れられ、数週間が経った。
 その間に、世界は大きく変わったのだ。
 季節は夏の日を残しながらも、冬へと変わった。その冬はいつもの冬と違い、生きとし生ける者達を殺すかの如く、凍てついた風を吹かせていた。
 空には灰色の化物じみた雲が君臨し、永遠に青空と太陽を包み隠して、一日中夜であるかのように錯覚される。太陽は姿を見せないが、時々、雲の隅から顔を出す月は、嘲笑っているかのように妖しく光っている。
 急速な環境の変化に、それぞれの種族達は大きな不安や不満を抱え、心を荒ませながら暮らしている。その負の感情は、どんな些細な事でもはち切れて爆発し、多くの国で同種族同士の暴動が絶えなかった。それを神族や戦乙女達が抑えてはいるものの、彼等自身も限界が近かった。
「トールさん、お疲れ様です」
「あぁ、テュール。お疲れ」
 夜も更け、遅くまで仕事をしていた神族達が、本日の仕事報告をしている時。トールも、担当であるテュールの元へとやってきていた。
 テュールは彼から報告書を受け取り、それに目を通しながら話しかける。
「トールさん。……あの件はどうですか?」
「……まだ、見つからん」
 あの件、とは。トールが独断で行っている、バルドルを殺した真犯人捜しのことである。彼は神族の仕事をしながらも、犯人を突き止めようとしているものの、成果は出せていない。
 その返答に、テュールは肩を落としながら「そうですか」と答え、その報告書に判を押す。
「あまり、根を詰めないでくださいね」
「分かってはいるが……早く、兄妹やシギュンさんの為に、無実であるロキを解放してやりたいのさ。一番捜したがっている兄妹は、自由に動けぬ身だからな」
 邪神の子ナリとナルは、彼等が邪神ロキによって暴走してしまった日から、豊穣の兄妹フレイとフレイヤの監視に置かれていた。エアリエルとフェンリルも、ナリとナルと近づかぬように、テュールの指揮でエインヘリヤル達に監視されている。
「トールさん、おれにも出来る事があれば何でも言ってください。お手伝いを、させて欲しいんです」
 そのテュールの言葉に、トールは「気持ちだけ、受け取っておくよ」と返した。そして、「そういえば」と別の話を始めようとする。
「シギュンさんは、まだ来てないのだろうか」
「シギュンさんですか? そういえば、今日はまだ」
「テュール様!」
 開いていた扉から、フギンとムニンが全速力で飛んで入ってくる。
「どうしたんだ、二羽とも」
 テュールの問いかけに、二羽が彼の机に降り立ち息を整えて話し始める。
「あの、ホズ様を見かけませんでしたか? お食事を持っていった戦乙女がお部屋に居ない、と報告を受けたのですが」
「どこかお出かけしてるのかな〜って、思ってるんだけどね。フギンが心配だからって聞き回ってるんだよ」
 ムニンの言葉に、トールやテュールも納得しかけた、ものの。「いや。それは無理だ」と、テュールが否定する。
「だってホズ様を連れ出しているのは、いつもバルドル様やナリ君とナルさん、だ。だから今……あの人を連れ出せる親しい人など……居ないはずなのに」

◇◆◇

 彼等がホズの部屋を訪れていた時。ロキは、目蓋を閉じて眠っていた。しかし、彼の耳に複数の足音が入ってくる。彼は重く閉じていた目蓋を開け、暗い廊下から一つの灯りがゆらゆらと自分の所に近づいてくるのを、じっと見つめる。
 彼の中で、その来訪者は決まっていた。ほぼ毎日この時間にシギュンが付添人のトールと共にやってくる。この二つの足音は、その二人だろう、と。
「ロキ」
「……シギュン、そんな毎日こんな所に来なくて、も……っ」
 しかし、それは間違っていた。シギュンの隣にいるのは、トールではなく。
「邪神ロキ。貴方に、話さなければいけない事がある」
 ホズであった。