「ぶぇぇぇええくしゅん」
アースガルドのテュール達の仕事場にて、ナリのくしゃみが鳴り響いた。
「うわっ。ナリ君、大丈夫?」
「風邪をひかれましたか、ナリ様」
「うーん、誰かに噂されてんのかなぁ」
ナリは鼻をすすりながら心配する二人に対して、そう答える。そして、自分の机に置かれた、なかなか減らない仕事の山を鬱とした眼で眺める。
「なぁ、テュールさん。やっぱり多くね? 今日の仕事。明日に回してもいい?」
「ナリ君はそれっばっかりだから、仕事が溜まっていくんだろ? もうすぐロキと決闘するからって鍛錬の時間が増えているのは分かるが、仕事はしないとね。その分のツケだよ。今日はそれを終わらせるまで、鍛練禁止。鍛錬は明日、今日の分も頑張ればいいから」
テュールの悪戯な笑みに、ナリは彼から目を逸らしながら苦笑する。
「あー、さーせん」
「ナリ様、頑張ってくださいまし」
「邪魔するぞ」
エアリエルの応援を背後で受けながら、ナリが仕事の山に手をつけようとしたそんな時、ある者が部屋へと入ってくる。
「フレイ!」
そこには、久しぶりに顔を合わせる、少しだけやつれたように見えるフレイの姿があった。
「ん? あぁ、ナリか」
「なんだよそれ。久しぶりに会うのにさ」
「そうか?」
「そうだよ、ほぼほぼ一週間だ。……フレイ、本当に大丈夫か?」
久しぶりのフレイの覇気の無い様子にナリは不安げな声音で話しかけるも、それに対しフレイはフッと笑ってみせた。
「馬鹿なナリ。余を心配するなら、まずは徹夜しても終わらなさそうな、仕事の山を片付けてからにしろ」
フレイの悪態にナリは顔をしかめるも、心の中で彼はいつも通りだな、と少し安心する。そんな二人を眺めながら、テュールがフレイに話しかける。
「フレイ、お父さんの所に行ってたんだって?」
「あぁ、少し厄介ごとがあってな。でもまぁ、大方落ち着いたからこうやって帰ってきたんだ」
「そうだったのか。お疲れ様」
「ありがとう。そうだ、ナリ」
フレイがテュールに礼を述べ、仕事の束をのそのそと片付けているナリへと話しかける。
「今日はここに泊まれ」
「は? なんでだよ」
「どうせそれが終わる頃には、夜中だろ。久しぶりに話もしたいしな、余に付き合え。じゃあな、また迎えにくる」
フレイはそう言って、ナリの返事も待たずに部屋を後にした。
「なんだよアイツ」
「いいじゃないか。友達として、付き合ってあげなよ」
「……まぁ、いいけど。どうせナルが帰ってくるのを待つか悩んでたし」
「それなら、私はロキ様にその事をお伝えしてきますね。ナリ様は引き続きお仕事頑張ってくださいませ」
「あぁ、頼むな」
そしてエアリエルはロキを探しに部屋を出ていく。
「あら」
部屋から出た瞬間、彼女の頬に風で揺れた髪が当たる。風の居処を探ると、誰かが締め忘れたのか一つだけ窓が開いている場所があった。エアリエルはその窓を閉める為に近くまで行くと、再び風が吹く。
その風は心地よく、彼女の髪を揺らす。しかし、ほんの少しの違和感を彼女は感じ取った。
「……嫌な空気が混じっているわね」
◇◆◇
「地上は、邪の気に満ちようとしています」
再びニヴルヘイムにて。最奥に位置するヘラの住処にて、フェンリルとナルは彼女からある話を聞いていた。
「邪の気って」
「……巨人族の事だな」
フェンリルの出した種族名にナルは彼を凝視するも、ヘラに至ってはそれが正解だと口では言わないものの、無言でそうだと言うかのように静かであった。
「もしかして、あの時のヴァルプルギスの夜の時から、何も終わっていないということですか」
ナルの怯えた様子を見ながら、彼は彼女の手に自分の前脚を置き、首を横に振る。その動作に首を傾げるナルだが、すぐにその理由に気がつきヘラを見た。ヘラはただ、微笑むだけであった。
「あ、あの。私はその」
「いいえ。あの時は、まんまと操られてしまった私も悪かったのですから」
ヘラは淡々とナルにそう言って、話を戻す。
「フェン兄様がお考えの通り、この世界で何かが起ころうとしているのは確実。しかし、まだその『何か』を断定は出来ません。それを聞きに来てくださったのに、お力になれず。ごめんなさい」
「かまわん。何かが起ころうとしているのは確実だという事だけでも収穫だ」
「はい。……フェン兄様」
「なんだ?」
「もしお時間が許されるなら、少しだけナルさんと二人っきりでお話をしてもよろしいですか?」
ヘラの願いに、ナルは俯き気味だった顔を上げ、フェンリルは二人の顔を交互に見てから「……いいだろう」と、その場から動き始める。
「程々にするんだぞ」
「えぇ、分かりました」
「あ、あの、ヘラ様?」
なぜ二人っきりで話をするのか、と戸惑うナルにヘラは「リラックスしてください、ナルさん」と優しく声をかける。
「出会った時にお話ししたでしょう? 貴方に、貴方達兄妹にお礼が言いたかったと。あの時のヴァルプルギスの夜に、貴方達が踏ん張ってくれなければ、きっと私は地上を大混乱に陥れていたでしょう。本当に、ありがとう」
ヘラはナルの手をギュッと握り、礼を言った。その言葉にナルはほんの少しだけ頬を染めて照れてしまう。
「そんな。お礼だなんんて。神族としてやるべき事をやっただけです」
彼女の答えに、ヘラは「それでも、ですよ」と微笑んだ。それを見て、ナルはようやく思い出す。フェンリルがヴァルプルギスの夜の準備の時に話していた、ヘラの思いを。
『春はあんなにも美しいのに、輝いているのに、ほんの一時しか出逢えないなんて。儚くも、懸命に輝く命に似ている。……フェン兄様、私は生者も死者もずっと悲しむのではなく、今まで生きてきた事に誇りを持って、これから生きていく事に勇気を持って、笑顔でいてほしいと思っています』
死の国の女王という冷たく感じる肩書きを持ちながらも、春が好きな彼女の春のような温かみを、ナルはその笑みから感じとっていた。
「ナルさん」
「はい、なんでしょう」
「フェン兄様。気難しくて、面倒な方だけれど、貴方の事気に入ってるみたいだから。これからも、仲良くしてくださいね」
ヘラは、自分達から少し離れた所でガルムと話しているフェンリルを見ながら話した。それにつられてナルも彼のことを見ていると、視線に気付いたのかフェンリルが彼女達の方へと顔を向けた。
そして大声で「なんだ?」と問いかけてくるも、「なんでもありませんよ」とヘラは返した。ナルは「なんでもないは、ないだろう」と思っていそうな、少し不機嫌気味に目元を通常以上に細める彼の姿に笑いながら。
「……はい!」
元気に、ヘラに返事をした。