4篇 家族の愛3


「おい、女」
「へ?」
 ナルが外を眺めていると、背後から彼女を呼ぶ声が聞こえた。ナルを「女」と呼ぶ者はただ一人。
「……フェンリルさん」
 先程、自分が悩んでいた相手、フェンリルであった。フェンリルは人型で鍛錬着を身につけており、滴る汗を拭う。彼の背後には、汗だくのテュールもいる。どうやら、二人で鍛錬に勤しんでいたようだ。
「鍛錬、お疲れ様です」
「ありがとう、ナルさん。今日もナリ君の見守りかな? もうすぐだもんね、ロキとの試合」
「はい。あ、実は今日」
 ナルはお茶会での出来事やホズの事をテュールに話し始める。そして、フレイとフレイヤの事も。
「そこで、聞いたんです。フレイさんとフレイヤさんが、親子喧嘩をしたって」
「親子喧嘩? 彼等が何か問題を抱えて悩んでるのは知ってたけど、親子喧嘩までは聞いてなかったな。ホズ様はどこからそんな話を」
「おい、テュール」
 と、ナルから聞いた話にテュールが考え込んでいると、フェンリルが二人の話に割り込んでくる。
「鍛錬に付き合ってやったんだから、約束通り、俺様の願いきけよ?」
 フェンリルの言葉にナルが首を傾げていると、テュールは苦笑いを見せる。
「分かった分かった。申請はオレがやっとくから……。ということで、ナルさん」
「はい? なんでしょう」
「フェンリルと一緒に、死の国〈ニヴルヘイム〉まで行ってきてくれないか?」
「……はい?」

◇◆◇

「「「……」」」
「……えっと、そういうこと、だから」
 その日の晩。ナルは晩ご飯を食べ終えた自宅の食卓で、三人に話をした。
 その話の内容は、昼にテュールから指示されたニヴルヘイムへと行く事である。
 詳しく話を聞くと、フェンリルがヘルに用があるらしく、その外出許可が欲しくて渋々テュールの鍛錬に付き合っていたようだ。
 しかし彼自身、巨人族の怪物兵器として監視対象である事は、グレイプニルによって力を抑えられているとはいえ、今でもその立場は変わらない。そのため、彼の付き添い兼監視役として、彼と友好関係のあるナルが抜擢されたのだ。
 その話を聞いたロキは「で? 行くのか」と冷静な声音でナルに問いかける。それに対して、ナルは頷く。
「一応、仕事の分類だから」
 ナルの答えに、ロキも「それもそうだな」と頭をかく。
「といっても、死の国でしょ? ナルは一度事故で落ちてしまったけど、身体に害はないの?」
 娘を心配するシギュンの疑問にロキが「それは」と、彼女の手を繋ぎながら、答えを出す。
「オーディンが言うに、もちろん死者の世界に生者が長時間……一日以上そこにいるのは問題だが、それ以下なら大丈夫だそうだ」
 ロキの話を聞き、シギュンはホッと胸を撫で下ろす。そんな中、ナリだけは不機嫌なままである。そんな彼に気付いたロキが、ナリの額を中指で強く弾いた。
「いった! なんだよ、父さん!」
「いやぁ、不細工な顔してんなぁって」
「不細工って……。俺は、ナルが心配だから」
「それはボクもシギュンもそうさ。でも、今回はただの付き添いで、行く場所はあのヘラがいるニヴルヘイム。フェンリルもいる事だし、問題ないさ」
 ロキがそう言っても、ナリの表情は暗いまま。そんな彼にナルが話しかける。
「兄さん。ついていくなんて言わないでね? テュールさんが、明日の仕事はすごく多いって言ってたから」
 ナルが兄に悪戯な笑みを見せるのに対し、ナリは「ゲッ」と苦しげな声を出すのを、他三人は苦笑する。
「今回は諦めな、ナリ。ついていくにしても、きっとフェンリルが煩いだろうし……なにより」
 ロキは席から立ち上がり、ナルの頭を優しく撫でる。
「ナルはもう、自分の事は守れるぐらい強いもんな」
「……」

 そうだよ。兄さんに追いつけるように、足手まといにならないように、隣にいれるように、助け合えるように。お父さんにも、褒められる為に。
 私は、強くなったつもりだよ。それでも、駄目なのかな。

「うん」
 そんな思いを口にはせず、自分の心の中にだけ留まらせて、ナルは笑顔で頷いた。


◇◆◇

 そして次の日。まだ太陽が明けぬ薄明時。
 ナルはフェンリルの上に乗って、死の国に繋がる入口へと向かっていた。
「おい、女」
「……」
「おい」
「……」
「……おいっ!」
「きゃあ!?」
 フェンリルは足を止めて、ナルが乗っているにも関わらず、身体を大きく揺さぶる。その行動に驚いたナルが、ようやく大きな声を上げ、振り落とされぬように彼の毛を強く掴む。
「フェンリルさん! 危ないじゃないですか!」
「貴様が返答しないのが悪い。あと、毛が痛いから離せ」
「こっちは落とされないように必死だったのに……理不尽」
 ナルは不機嫌気味な彼の言った通りに、強く握っていた場所から手を離し、そこを優しく撫でてやった。そのおかげか少しだけ機嫌を直したフェンリルは「で?」と、彼女に話しかける。
「なにボーッとしていた。眠いのか? そうならば、少し我慢しろ。俺様の上で寝られても困るからな、向こうに着いた時に休めるよう言ってやる」
 フェンリルの言葉に対し、ナルは「そう、ですね」と彼から目を逸らし、曖昧な返しをする。そんな彼女の様子に首を傾げながら「べつに」と言葉を繋げていく。
「無理してついてこなくてもよかったんだぞ?」
「え?」
「付き添いが小煩いテュールじゃなく貴様で良かったが。わざわざついてこなくても、どこか暇潰し……そうだな、狼の国や人魚の国にでも預けて」
「だ・め・で・す!」
「いっ!」
 ナルはフェンリルの発言に対し、彼の毛を毟るかの如く強く掴んだ。
「仕事ですもん! ついていきます!」
「じゃあ、なんだ? そんな腑抜けた顔しやがって」
 また、ナルは口を閉じてしまう。そんな彼女に呆れたフェンリルは、深く溜息を吐く。彼女の「話したくない」といった感情が伝わったのか、彼は彼女に何も話しかけずに足を動かす。
 そのまま、無言の時間が続く。
 フェンリルが歩いて揺れるたびに、ナルの耳飾りがユラユラと揺れる。彼女の悩みで曇る心の如く、聞くべきか聞かざるべきかと、揺れている。