「兄さん! 私言ったよね⁉︎」
それは晴れやかな四月、春空の下。
兄妹が神族となって、三年が経った。
兵士や神族が汗水流す鍛錬場にて、ある女性の怒声が鍛錬場に響き渡っていた。
「怪我だけはしないでねって!」
顔つきがほんの少し大人の女性らしくなった、ナル。
そんな彼女の怒りが鍛錬場の隅で炸裂していた。勿論、その怒りの矛先は……。
「で、でもよ? こんなんただの擦り傷じゃねーか」
「それが毎日なんだから、心配してるの!」
「えぇ〜……」
彼もまた顔つきや体格が逞しくなった彼女の兄、ナリ。
彼はボロボロな服に腕や顔に多くの傷を作っていた。ナルのたかが擦り傷での説教に、ナリは唇を尖らせる。正座をしてはいるものの、どうやらあまり反省していないようだ。
そんな彼にナルは大きく溜息を吐く。
「もう。私が回復出来るからって甘えねいでよね」
「それに関してはいつもお世話になってます」
「思ってるなら怪我をしない程度に鍛錬して!」
「それは無理な相談だな!」
「兄さんっ!」
全く反省する素振りを見せない兄にナルは再び怒声で叫んだ。
「ナル様。どうかお怒りを抑えてくださいませ」
そんなナルに、傍で見守っていたエアリエルが仲裁に入る。
「エアリエルさん……。貴方も兄さんを思うなら、無茶させないようにしてくださいよ」
「それは分かっているのですが、つい頑張っているナリ様を見ていたらあたたかい目で見守っていたいという気持ちが止められなくて……」
「……」
頬を赤く染めながら言うエアリエルだが、ナルからの痛い視線に気付くと「ではなくてっ!」と慌てて否定する。
「ナル様も、ナリ様が毎日ここまでする理由をご存知でしょう? それを知っていたら、仕方がないとしか」
「それは、そうですけど……」
ナルは彼女の言葉に下を向く。
彼が毎日熱心に鍛錬に励んでいるのは、自分の父ロキと戦うからである。
彼は稽古をつけてもらっていたバルドルからようやく一本取れたため、ロキと戦う切符を手に入れたのだ。
早速それをロキに伝えれば、一ヶ月後に戦う事が決まった。その約束が取り付けられて一週間。ナリは毎日今まで以上に鍛錬に励んでいる。
兄がずっと父と戦いたかった事を知っていたナル。応援したい気持ちは勿論あるものの、毎日怪我しても鍛錬を続ける姿は彼女には見ていられないものであった。だからこそ彼女は彼の妹として心配しているのだ。
「だからって」とナルは兄と同じ目線となり、その手を握って小さく『イサ』と呟けば、たちまちナリの身体の傷が青白く光りながら跡形もなく治っていく。
「擦り傷や小さいものとはいえ、当日に響いたりしたら元も子もないでしょ? だから、無理はしないで」
「……おう」
ナルの悲しげな瞳に見つめられて、ナリは眉を下げ彼女の頭を雑に撫でる。
「ありがとうな。これからは気ぃつけるから」
ニカッと笑いそう答えた。頭を撫でられる事は嬉しいものの、それでも不安が拭えないナルの表情はほんの少しだけ暗いままだ。
そんな妹の顔を見て、ナリは「うりうり〜!」と容赦なく彼女の頭を撫で回しまくる。突然の彼の行動にナルは「きゃあああ! 兄さん、ちょっと〜!」と兄の手を頭から離そうとするも、彼女の顔はいつもの可愛らしい笑顔であった。
いつも通りの賑やかな二人をニコニコと笑みを浮かべながら見守っていたエアリエルは、ある存在に気付きナリの肩をツンツンと触る。彼女の行動に気付いたナリがエアリエルの方を振り向いた。
「ナリ。愛する妹からの説教は終わったか?」
「てめぇがいつも手加減しねぇから、愛ある説教頂いてんだけど?」
二人の傍へとやってきたのは、フレイであった。
「ハハハッ。自分の弱さを他人のせいにするな。そもそも、貴様が強ければ怪我などせんのだよ」
フレイがナリに向かって指を刺し、正論を彼に向かって投げつけた。フレイの言葉に言い逃れができなかったナリは目線を下にする。
「うっ。まぁ、それはそうなんだろうけど……で? 何の用だ? 俺、もう今日は終わらせるけど」
「余も終わりにしようと思ってな。ナルさん。確か今日は我が妹とお茶をする予定ではなかったかな?」
フレイは首元に流れ落ちる汗を拭き取って、ナルに問いかけた。
「はい。紅茶のクッキーを作るから、一緒に食べようと」
ナルは鍛錬場に置かれた大時計が刻む、十四時二十分の針を見つめる。約束の十五時まで、あと少しであった。
「ならば人数が増えても問題ないな。我が妹に伝えてくれ、鍛錬を頑張った我等に美味しい紅茶と菓子を頼む、と」
「はい、分かりました」
フレイは彼女の返事を聞くと、「では」と、まだ座っていたナリの腕を掴んで引き上げる。
「まずは風呂だな! 汗臭ければ、我が妹に嫌われる!」
「だろうな。じゃあな、ナル、エアリエル。また後で」
「うん。また後でね」
ナルは風呂場へと向かう二人に手を振り、もう一度大時計の時刻を確認して鍛錬場を後にし速足しながら傍にいるエアリエルに声をかける。
「エアリエルさん。ここからフレイヤさんの部屋に時間通りに間に合うでしょうか?」
「そうですね……部屋へ直行なら間に合うかもしれませんが、紅茶のカップなど増やす事をお伝えするなら先にフレイヤ様を探さなくては」
「そうですよねぇ……部屋で会っても、二度手間だし。どうしよう」
エアリエルの言葉で更に頭を悩ませるナル。そんな彼女の頭上にヌッと大きな影が現れた。その影がいる背後を振り返ると。
「フェンリルさん!」
そこには、神殿内だというのに珍しく獣姿のフェンリルがいた。
「どうしたんですか、こんな所で会うなんて珍しい」
「今日は片腕野郎に、『いつもぐうたらとしてるから鍛錬に付き合え』と言われてな」
フェンリルはとても面倒くさそうな顔をして話す。ナルは「片腕野郎?」と首を傾げるも、すぐにエアリエルが「テュール様のことですよ」耳打ちする。
「それでここまで来たんだが……なんだ、貴様も珍しく鍛錬でもするのか?」
「いえ、私ではなく兄さんが。今から、急いでフレイヤさんを探しに行くところだったんです」
それを聞いたフェンリルは「ふーん」と薄い反応を見せるも、何か思いついたのか、大きな口をニヤリとさせて鋭い牙を見せる。
「女。急いでいるなら、俺様の背中に乗せてやろう。それに、俺様なら匂いですぐ見つけられる。探す手間が省けるぞ」
「えっ!? それは、嬉しいですけど……テュールさんとの約束は」
「誰がそんな約束守るか。まず、俺様は貴様の魔術特訓に今でも付き合ってやってるんだぞ。弱い奴との鍛錬なんて時間の無駄。ほら乗れ」
フェンリルはナルが乗りやすいように姿勢を低くする。ここまでされて「やっぱりいいです」と拒否すれば、彼の機嫌が悪くなるのを想像できたナルは「よ、よろしくお願いします」と彼の背中におずおずと乗る。彼女がちゃんと座ったのを確認したフェンリルは、ゆっくりと起き上がった。
「貴様も来るのか」
「えぇ。後でナリ様もいらっしゃいますし」
「そうか、ならちゃんとついてこいよ。女も、振り落とされねぇように、ちゃあんと捕まっとけよ」
「は、い、っ!」
ナルの返事が終わる前に、フェンリルは鍛錬場の傍にある草原へと入り、そこから一気に加速し、颯爽と駆け抜けていく。
彼女の髪、耳飾り、フェンリルの毛が風で揺れる。
「……っ! あははっ!」
最初は強張っていたナルの顔は、世界を照らす太陽のように、明るく輝いていた。