薄暗い地下牢。シギュンは日課となったロキの世話を終え、帰ろうとしていた。
「それじゃあ、兄妹の部屋に寄って帰りますね。トールさんにも、謝らないとですし」
「……シギュン」
ロキが妻の名を呼ぶ。彼女は彼に背を向けたまま、「なに?」と問いかける。ロキは戸惑いながらも口を動かす。
「ホズの、ことだけど……」
その名に、シギュンは肩を震わせる。
「誰にも、言わないでくれ」
ロキの言葉にシギュンは勢いよく振り返り、小さな怒りを渦巻かせた瞳で彼を睨み、何か言いたげに口を開く。しかし、シギュンはそのまま口を閉じ、身体を震わせ、ゆっくりと足を夫の所へと進ませる。ロキの前へと辿り着いたシギュンは彼と同じ目線になるよう膝をつき、強く強く彼を抱き締めた。
「……シギュン。辛いかもしれないが、どうか耐えてくれ。ボクのためにも、親友バルドルのためにも」
ロキの言葉にシギュンはゆっくりと頷く。
彼女は「ロキ」と夫の名を呼び、その唇に自身の唇を重ねた。長く、長く、ロキと育んだ愛を確かめるかのように長く。それをロキは受け入れ、互いに愛を確かめ合う。
ロキとシギュンの唇が離れ、シギュンは言葉を溢す。
「私は、貴方や兄妹、家族を愛しています」
「……あぁ」
「愛しているからこそ、貴方達の身にこれ以上の不幸が訪れるなら……」
シギュンの瞳に、影が宿る。
「私は、なにをするか分からない」
その瞳に、ロキは覚えがあった。それは、ロキがシギュンに初めて会った時の瞳。そして、彼女に初めて恐怖の感情を持った。ロキにとって二度目の、畏怖に似た感覚を。
「シギュン、やっぱり君は……」
「ロキ様」
ロキの言葉を遮ってやって来たのは。
「ロキ様、申し訳ございません。私が、私がお傍にいなかったから」
涙を流し、姿が靄のように透き通って今にも消えてしまいそうなエアリエルと。
「……ナリ?」
彼女に抱えられ、重く瞼を閉ざすナリの姿があった。
エアリエルは彼等へと近付き、ナリをゆっくりと彼等の傍へと降ろした。シギュンはすぐさまナリへと手を伸ばし、冷たくなった顔や手を触っていく。手はとうとう彼の腹の傷に触れ、そこにいくつもの涙を落としていく。
「ナリ、ナリ、ナリっ! あぁ、そんな……どうして……どうして。一体、この子に何があったの……っ!」
エアリエルは顔を下に向けたまま、「それは、私にも」と話し始める。
「自身の姿が消えかけていくのに気付き、ナリ様の身に何かが起こったことが分かりました。しかし……見つけた時には、遅すぎました」
「……ナリ」
今まで黙っていたロキが、息子の名を呼ぶ。
「ナリ……なんで、死んじまったんだ」
彼を縛る鎖が、彼が感情と共に動く度にぶつかり合う。彼の悲しみを表現するかのように、鈍く重い音が地下牢で響き渡る。
「まだ……ボクに勝ててないだろ……! 今度こそ、ボクに勝つんだろっ! もっと! これからも! 強くなるんだろっ!」
彼の頬に、涙が伝う。
「……君まで、ボクをおいて逝っちまうんだな」
シギュンは動かぬナリを抱きかかえ、エアリエルへ問いかける。
「エアリエルさん。ナルは? ナルは、彼と一緒じゃなかったの?」
シギュンの問いに、エアリエルは首を横に振る。
「はい。私がナリ様を見つけた時にはどこにも。けれど、近くに彼女の気配が」
コロッ、と小さな小さな音が彼等の耳に入る。振り向くと、そこにはフェンリルがいつの間にかそこに居た。そしてその足元には、兄妹が身につけていた耳飾りが一つ。ナリの耳にはその耳飾りが付いたままであるため、それは。
「ナルの、耳飾り。フェンリルさん、ナルはっ! ナルはどこにっ!」
シギュンがフェンリルに迫るものの、彼は無言だった。いや、無言で良かったのだ。それが、彼等への答えなのだから。
それを察したシギュンは、ナリを抱きしめる力を強める。
「エアリエル」
ロキが彼女の名を呼ぶ。今度は、彼が彼女に問いかける番となる。
「誰が殺ったのか……分からないのか」
ロキの翠色の目が、冷酷な目つきを見せる。エアリエルは彼のその目で見られ、わずかに体を揺らす。彼女はロキと目を合わす事が出来ず、「それは……」と、口をつぐむ。その表情を、ロキは見逃さなかった。
「分かってるんだな! 教えろ! 誰だ! 誰がこんな事をッ!」
ロキの怒声に、エアリエルは震えながら恐々と話し始める。
「わ、私も、姿の見えぬ誰かにそうであると聞かされた身のため、それが真実なのかは分かりません。正直、信じられない、というのが正しいです」
ロキは彼女がその名を出すのを固唾を呑んで待つ。エアリエルは一度深呼吸をして、シギュンに抱き締められているナリの手を強く握る。
「……ナリ様を殺したのは……神族なのです」
エアリエルの絞り出した声で出された言葉に、ロキとシギュンはハッと息を飲む。
「神族の……誰なの?」
シギュンの問いかけにエアリエルは「それは、分からず」と答える、と。
「誰だっていい」
と、ロキが声を漏らす。低く重い声音で。
「ロキ?」
シギュンが夫の名を呼ぶ。冷たく、その奥に怒りの炎を燃やす彼の瞳が空を睨んだ。
「全員殺せば済む話だ」
ロキは自身を縛る鎖に僅かに動く手を添える。するとその鎖は鈍い灰色からだんだんと赤く橙へ、どろり、と地面や彼の手へと溶け落ちていく。火傷を負う手にロキは一切悲鳴を出さず、久方ぶりに自由となった手をギュッと握り締める。
そしてその手を、ナリの頭へと持っていく。いつもなら嫌がる素振りを見せるものの今は何も喚かぬ息子の頭を、彼は優しく撫でてやった。
ロキは名残惜しげにナリの頭から手を離し、ゆっくりと立ち上がって、一歩前へと出る。
「ロキ!」
シギュンが彼の名で静止の声をあげた。
「ロキ、貴方が今からやろうとしている事。そんなことをしても意味がないわ! だって、そんなことをしても……子供達が生き返ることはないものっ! それに、貴方だって……嫌よ、貴方も失ってしまうようなことがあったら、私」
大粒の涙を流す妻に、ロキは。
「関係ない」
と、言葉を放った。
「……関係ない、ですって?」
彼からの想像もしえなかった言葉に、シギュンは目を丸くさせる。
「ボクが殺りたいから殺るんだ。あのくだらない奴等を全員、殺してやる! ……そもそも! ボク等の子供が死んだっていうのに、どうして奴等が生きてるんだ? おかしいだろ! なら……殺されたって、文句は言わせない」
ロキの耳に、愛する妻の声は届かない。
ロキはシギュン達を残して、一歩、また一歩と進んでいく。復讐への道を。
「……貴方、誰なの」
シギュンは背中を向ける夫に、声の届かぬ夫に、負の感情に落ちようとしている夫に、悲痛な叫びを向ける。
「ロキは、そんな冷たい目をしない! そんな冷たい声なんかしない! 貴方はもう……私の知ってるロキじゃないわ!」
ロキは彼女からの言葉に、苦痛に歪んだ表情を見せる。
彼女も苦しんでいた。彼も苦しんでいた。
苦しみはどちらも同じはずだというのに、苦しみを分かち合う事が出来ない。
「お願いよ。私、貴方とこれからも一緒じゃないと……嫌よ」
シギュンの悲泣の声に、ロキはようやく振り返り、フェンリルの持ってきたナルの耳飾りを拾って彼女の元へと戻る。ロキはシギュンの手にナルの耳飾りを強く握らせ、その手を自身の手で覆った。
ロキは真っ直ぐに、シギュンの目を見る。
「必ず、帰ってくるよ。だから待っていて……シギュン」
ロキはそう言い残し、それでも止めようとするシギュンの手を払い除け、地下牢から出て行った。