光が死んだ。
最高神の一人息子。最高神の後継者。これからの世を統べる存在。これからの世を、その光で照らす存在。光の神バルドルが、死んだのだ。
父であり最高神であるオーディンを狙った毒矢を自ら受け、彼は死んでしまったのだ。神族のみならず、この世界全ての者が彼の死によって悲しみという負の感情の渦に埋もれている。
彼の母であるフリッグは、これは悪夢であり、現実であると受け入れられずに部屋に引き籠っている。そして、彼の父オーディンもまた心に傷を負っていた。
「なぜまだ犯人が分からんのだ!」
「我等の最高神を殺めようと謀り、その息子を! 光の神バルドルを殺した輩を罰せねば!」
「……」
それでも、兄弟のヴィリとヴェーが動かす会議に参加している。最愛の一人息子を失いながらも、彼はこの世界の最高神であるのだから。どれだけ心に傷を負おうとも、妻と共に悲しみに埋もれたくとも、彼は下の者達がいる場の上に立たなければいけないのだ。
そんな彼を、背後からフギンとムニンが心配げに背後から見つめるものの、主人に対して声をかけられずにいる。
会議に参加しているトールやテュールなどの上位種の神達が、ヴィリとヴェーの言葉に狼狽る。ヴィリが話した通り、矢を放った犯人はバルドルが死んで数日が経っても見つけられないでいるのだ。犯行時に使ったであろう弓は森奥で壊され捨てられていたが、それだけしか証拠は見つかっていない。
「巨人族の仕業じゃないのか?」
「馬鹿者。奴等は我が国以外へ入国する事は禁じているだろ。警備も十分だ! そうだろう!」
「警備をしていた兵士達に、怪しい者が居たか聞くべきか?」
「もし怪しい者が居て、その者を易々と入れた兵士がいるのならば。今一度、神族に仕える兵士としての自覚を叩き直さねばならんな」
それぞれの言葉が円卓上で飛び交う中、一人の神族が「皆様」と声を張り上げながら立ち上がった。議論しあっていた部屋は静まり、立ち上がった神族に皆の目線が集まる。
「ん? 貴様は……?」
「皆様、お忘れではありませんか?」
その者は、声高らかに話し出す。
「いるではなりませんか。この国に、大罪を犯したであろう怪しい者が」
その者の言葉に皆は前のめりになりながら、彼の口から発せられる言葉を固唾を飲んで待つ。
「巨人族の血を持つ者。邪神ロキですよ」
◇◆◇
同時刻。
邪神ロキはこの数日、最愛の家族のいる家に一度も帰らず、ただ一人、親友との思い出の場所である庭にいた。庭は輝く月明かりによって草木や花が美しく照らされているものの、それらとは真逆に彼の表情は、濁った雲がその光を拒絶しているかのように、暗いものであった。
彼も例外ではないのだ。ロキにとって彼は唯一の親友であり、家族以外で心を許せる仲であったから。バルドルを失った悲しみは、彼の心も深く傷つけている。心配して迎えに来た家族に悲しい顔を見せず、心配する家族に「一人にしてほしい」と願い、ここでずっと、彼と過ごした日々を思い返している。
彼は柱に身体をもたれさせ、泣きすぎて赤く腫れている目で月を睨む。
「なんつー終わり方だよ。なぁ、バルドル」
彼の目から再び涙が溢れる。
「父親を救って、君の人生は終わりなのか? ……ホズは、君の弟は、どうすんだよ……あの子の家族は、君しかいないんだぞ」
嗚咽を吐きながら、彼の愛する弟の名を出す。
「なのに……君は、君は……。言ってただろ? 弟の光として、彼を救うんだって。言ってたじゃねーか」
***
「ボクに会いたい奴がいる?」
ある日の昼下がり、自室で休んでいたロキの部屋へバルドルがやってきて、話を始める。
「そう。私の弟に貴方の話をしていたら、一度会ってみたいとお願いされたんだ。どうだろう、会ってくれないか?」
バルドルのお願いにロキは好意的に受け入れて頷くものの、一つの疑問を彼に告げる。
「別に会ってもいいけどさ。君、弟なんていたんだな」
「え?」
「神族になってここに住み始めてから結構経つけど、そんなの初めて聞いたな」
ロキの言葉にそこまで驚く要素は無いはずだが、バルドルは目を見開いてロキを見つ目ながら「知らなかった、のか?」と質問し返した。
「神族の家族関係とか興味無いしな。というか、君の弟ならオーディンから君と一緒に紹介するはずじゃないのか?」
バルドルは「普通は、そうだよな」と悲しげな笑みを浮かべ、少し考えるそぶりを見せながら、「よし」とロキの腕を掴む。
「実際に見た方が早い。夜の予定だったが、今から行くぞ」
「はっ、ちょ、今からって」
バルドルに腕を掴まれながらロキが辿り着いたのは、彼の自室から真逆の方角にある端の部屋であった。バルドルがその扉を軽く叩き、中に居る者の名を呼ぶ。
「ホズ。私だ、バルドルだ。入ってもいいか?」
「はい、どうぞ」
中から少し高めな男の声が聞こえる。バルドルが扉を開くのと同時に、ロキは部屋の様子を隙間から覗く。部屋には過ごすに必要最低限の家具や本が置いてあるだけで、部屋の装飾は豪華なものの、寂しげな空気の漂った部屋であると感じられる。
バルドルに続きロキが部屋の中へと入ると、ソファに一人の男が座っていた。バルドルと同じ金色の輝かしい髪。しかし、鼻先まで長く伸びた前髪は誰がどう見ても鬱陶しそうだ。
「兄様、今日はどうされたのですか? それに足音が兄様と合わせて二つ。お客様ですか?」
足音。その単語にロキは首を傾げる。
「あぁ、そうだよ。ロキを連れてきた」
バルドルが彼に手を差し伸べながらそう言うと、彼は顔で唯一見えている部位の口元を綻ばせた。彼はバルドルの手を取りながらソファから立ち上がり、ゆっくりとロキの元へと歩んでくる。ホズがロキのいる場所の手前までやってくると、バルドルはわざわざ彼に「ホズ。私の斜め右にロキがいる」と教えた。ホズは「ありがとうございます、兄様」と礼を述べながら兄の言う通りに、身体を斜め右に動かし、ロキと真正面の位置を取る。
「はじめましてロキさん。僕はホズと申します。以後、お見知りおきを」
「あっ、あぁ。ボクはロキだ。よろしく」
ホズは頭を下げて挨拶をしたものの、丁寧な挨拶に慣れていないロキは戸惑いながら挨拶を返した。それから、ロキはじっくりと彼の姿を観察し始める。
兄であるバルドルと同じ金色の髪を持つ青年。雰囲気はバルドルと似て、穏やかな印象が彼の話し方から感じられる。けれどロキは彼から、ほんの少しの違和感が彼を覆っているように感じられた。
ロキがジロジロとホズを見ていると、彼がその様子を感じ取ったのか「フフッ」と笑う。
「先程から視線が強いですが、そんなに気になりますか?」
「あっ、あぁ、悪い。君のことはついさっき知ったばかりでな。オーディンに紹介してもらわなかったしな」
ロキが口から出した『オーディン』という単語に、ホズは肩をぴくりと跳ね上がらせる。バルドルも目線を下げ、悲しげな表情を見せる。そんな兄弟の様子に戸惑うロキに、ホズが口を開く。
「お父様に紹介されなかったのは⋯⋯僕が目の見えない者だからですよ」
「目が、見えない?」
ホズの告白にロキは、驚きながらも目が見えないという事に自然と納得してしまう。今までの彼の行動、人の足音に敏感で誰かの補助が無ければ安全に歩く事が出来ない。それが、彼に対してロキが抱いていた違和感の正体だ。
「そう、僕は……」
彼は自分の長い髪をかきあげ、目を開く。
「生まれつき目が見えないんです」
そこには、暗闇しか映っていなかった。