まだ少し風が冷たく感じるものの、ようやくコートが無くとも活動できるようになったユグドラシル。
冬に眠っていた草花達が地面の中から目を覚まし、眠っている間に育てていた自身の蕾を開こうとする四月末。
ナリとナルの神族の仲間入りになるための試験まで一週間程に迫ったこの日。ユグドラシルではある行事で再び賑わっていた。
ヴァルプルギスの夜。
儚き命を悼む祭。満月の夜に、それぞれの国で大きな大きな炎が焚かれる。熱い赤き炎は冷たい青き炎へと変わり、それは死の国に繋がる門となってその国に女王の黒い使者を迎える。
神の国へ送られる死者は何か功績を上げた者であり死んでも尚兵士となり神族に仕えるが、そうでない者は死の国へ逝くのである。そのため生者は使者に死を迎えた愛しい人達に送るための特別な花を渡すのだ。
その花の名をマエスティティア、またの名をウェールと呼ぶ者もいる。小さな丸っこい形で、紫味のある薄い赤色をしたこの花は死の国でも少しの間だけ咲くことが出来る、妖精族が創った花である。
この祭に出店など無く何一つ騒ぐことはないのだが、異世界からの来訪者は多い。なぜならその花を飾り付けるのと、その花を渡す光景、焚かれた死の国の入り口である炎が幻想的というのが人気らしい。
兄妹とエアリエルは、この祭に重要な花を妖精族から預かり人間の国まで届けるのが今回の仕事だ。兄妹達はその届けた花を集まってきた子供達と眺めていた。
「すっごいきれい……」
「ねぇ、このおはなにはなことばはあるの?」
「花言葉ね……。これが花言葉かどうか確かではないけれど、マエスティティアは悲しみでウェールは」
「春だな」
「っ。フェンリルさん」
フェンリルが人型の姿になって、兄妹達と子供達の元まで遅れてやってくる。
「フェンリルも知ってたんだな」
「あぁ。その名前を名付けた奴を知っているからな」
「誰だよ」
「死の国の女王、ヘラだ」
「……そっか。フェンリルさんはヘラ女王のお兄さん」
「兵器として生まれた順番でしかないがな」
「おにいちゃん、じょおうさまのおにいちゃんなの?」
「なぁ、はんぶんくさってるってほんとうなのか?」
死の国の女王ヘラ。半身が腐った巨人族の兵器として生まれる。しかし、神族に負けたことによりオーディンの命により死の国の管理、女王の座に座ることとなったのだ。
「あぁ、そうだぞ。アイツの腐った手に触れれば、貴様等の身体なんぞ溶けてしまうかもな」
「わぁー!」
フェンリルが尖った歯を見せて少し怖めな顔で子供達を脅かすと、彼等は怖がりつつも楽しげに笑いながら逃げていった。
「フェンリルさんって、子供好きなんですか?」
「別に。普通だ」
「なぁ、話戻るけどよ。なんで女王は花に名前を付けたんだ?」
ナリは随分と「なぜ女王がそんな事をしたのか」というのが気になるらしく、フェンリルに急かすように質問する。
フェンリルはそれに対し、特に嫌な顔をせず口を動かす。
「さっき女が言ったようにマエスティティアには悲しみという意味があるだろ? ヘラはそれが好かなかったのだ。彼女は死の国の女王となって死の在り方を生を命を持つことを知った。生を歩くということは、決して永いとは言えぬ命を持つということは、その先に必ずあるそれ等を受け取った者達が決してあらがってはいけない、死を受け入れるということを。だが、その死が生を受け取った者達の傍に、あまりにも近くに存在するということを。命とはとても儚いものなのだと、悲しいものなのだと、彼女は言っていた。けれど、その悲しみは延々と心に在り続けるのは生者にも死者にも良くないもののようだ。だからこそ、彼女は送る花だけでもその悲しみから断ち切った物としたかったんだ。だから彼女はあの花に新たな名前を付けた」
「それが、ウェールなんですね。どうして女王ヘラはあの花を春という意味の言葉で名付けたんですか?」
ナルがそう聞くと、フェンリルはフフッと普段は見せない笑みを浮かべた。それを見たナルは数回瞬きをする。それでも、彼の口元は笑っていた。
「最高神に嫌々頭を下げて、ヘラに会いに死の国まで行ったことがあってだな。その時に聞いた話だ。彼女は」
フェンリルはとても優しげな笑みを浮かべながら、妹である女王ヘラの話をする。そんな顔をするフェンリルが珍しく感じた兄妹達は、その話を温かい目をしながら聞く。
「彼女は一度死の国を抜け出して、外の世界を見に行ったらしい。その時期がちょうど、春という季節だった。ニーズヘッグに乗って彼女はこの世界の春を見た。死の国とは違って、暖かく明るい世界を見て、彼女は感動したんだと」
フェンリルは春の空を仰ぎながら、話を続ける。
「俺様は彼女に春は短い事を話したら」
『春はあんなにも美しいのに、輝いているのに、ほんの一時しか出逢えないなんて。儚くも、懸命に輝く命に似ている。……フェンリル兄様、私は生者も死者もずっと悲しむのではなく、今まで生きてきた事に誇りを持って、これから生きていく事に勇気を持って、笑顔でいてほしいと思っています』
「だから彼女はあの花に春という意味のウェールと名付けたんだ。花は送ってくれた生者からの想い、命のようなものだから、彼女はそう例えることにしたのさ。その女王の意図を知った死者達はそれを小さな春だと思うようになり、この時期だけは死の国に笑顔が、花が満開に咲いたようで、死の国にも春がやってきたようで、幸せなんだと」
フェンリルから話を聞き終えた兄妹達は、改めて見る。小さくも可憐に咲き誇るこの花を。
「今日も死の国で花が咲くといいですね」
◇◆◇
時刻は夜となり、人間の国の中心街から離れた草原に、多くの枝が円状に立てられている。
その周りに多くの人間族は炎が灯るのを待っていた。そんな人間族の後ろにいる、テュールや兄妹達、異世界の客人達も今か今かと待っていた。
「ナリ、ナル」
「「っ!」」
兄妹の名を呼んだのは、彼等の母親であるシギュンであった。シギュンは兄妹に手を振りながら、テュールに一礼する。
「母さん、来てくれたのか」
「勿論。これには毎年来てるからね。それに、最近貴方達『修行だ、修行だ』とか言って帰ってくるの遅いんだもの。こうやって会わないと、お母さん寂しいわ」
「ごめんって母さん」
「あと試験まで一週間なんだもの。分かってよ」
「はいはいお母さんが我儘でしたー。だから頭を撫でさせて頂戴」
「「はいはい」」
そんな親子の様子をテュールやエアリエルが温かい目で見ていた。
可愛い子供の頭を撫でながらだんだんと不機嫌な顔を幸せな表情へと変えていくシギュン。そこでシギュンはキョロキョロと誰かを探す仕草をする。
「……ロキはここにいないのね」
「お父さんはオーディン様達と一緒に神の国にいるみたい」
「あら残念。久しぶりに家以外で家族揃うかなって思ってたのに」
「おっ、始まるみたいだよ」
ようやく誘導係の神族が周りに居る人間族を遠くに行かせ、一人の神族が持っていた松明の火を薪へと移す。
火はすぐに薪全てを包み込み、頂上に到達する。夜空に向かって舞い上がる炎は、その夜空の色を吸い取ったかのように、頂点から青色の炎と色を変えていく。その瞬間だけは皆、息を飲んでその幻想的な光景に目を奪われていた。
刹那、炎の中心に黒い穴が開く。そこから女王の使者が現われる。の、だが。
「……あれ?」
使者は一向に現れず、パチパチと炎が弾け合う音だけが鳴る。
何がどうなっているのか。テュールと誘導係の二人がその穴に近付き、その穴を覗き込んだりしたりするものの、特に何も無いようで、不思議がっていた。
「よし。テュールさんの所に俺達も行こうぜ」
「うん!」
「あ。ナリ、ナル。気をつけてよ!」
シギュンの言葉に兄妹は軽く「はーい」と返して、テュール達の居る所へと皆向かった。
「テュールさん、穴の中どうでした?」
「どうもこうも無いさ。真っ暗すぎて何も見えない。あっ、だからって二人はそうやって首を入れない」
兄妹はテュールの話を聞きながらその穴へと首を突っ込んでいた。彼の言う通り、その穴は真っ暗すぎて何も見えない。何の音もしない。首根っこを掴まれ兄妹は穴の外へと出される。
「とりあえず他の国ではどうなっているかおれは情報収集をしてくる。その間に君達は人間族や客人達を中心街に連れて行ってくれ。あぁ、二人ぐらいはこの穴に異変が無いか見張りを」
テュールの指示で穴から離れようとする兄妹。
しかし。
【タスケテ】
「「えっ」」
肩を強く掴まれる。
【タスケテ】
黒い腕のようなものが、兄妹の肩を掴んでいた。
【ジョオウヲ、タスケテ】
「ナリ様!?」
「――ナルっ!」
兄妹は一声も発せずに、穴へと落ちていく。
冷たく暗い、あそこへ死の国へ繋がる穴に。
哀しみの声で助けを呼ぶ黒い者に導かれて。