けれど、頑張ったというだけの感情はここにはいらない。勿論、その頑張っていた姿を見て心動かされるものも少なくないのだろうが、それだけでは意味がない。それだけではここで生きてはいけない。勝利という結果を掴まなければ、フレイとフレイヤから一本取り試験に受からなければ、神族になる事は叶わぬのだ。
何も言わないで傍に寄り添ってくれたエアリエルにナリは少しだけ背を預け、ナルはフェンリルの背に自身の顔を埋める。フェンリルは彼女の行動が気に食わなかったものの、今だけ今だけだ、と目で訴えながらそのままにしてやった。
「今回は模擬戦だったからとはいえ、三ヶ月後には彼等とまた戦わなくちゃいけない。きっとあの二人はまだ本気を出していない。だから、今度は今回とはまた別格の二人と」
それからのこと、ナリとナルは互いに修行に明け暮れる日々を過ごしていた。
「っしゃあ! 二十人斬り!」
ナリは鍛錬場で多くのエインヘリヤル達を相手に、連続で木剣を交えていた。
「ナリ様、そろそろ休息を取られてはいかがでしょう?」
「まだまだっ!」
ナリの答えに、エアリエルは苦笑いで「そうさせてあげたいのはやまやまなのですが……」とナリの背後へと視線を移す。それにつられてナリも自身の背後を見ると。
そこには、彼の鍛錬に付き合っていたエインヘリアル達が床に寝そべって倒れている姿であった。それを見たナリも苦笑を見せ、「あ、あ〜。うん、そうだな休もう」と言うと、倒れていたエインヘリヤル達が手をあげ弱々しくも「さんせ〜い」と叫んだ。
ナリは倒れている彼等の傍へと駆け寄り、床へと座る。
「ありがとう、皆。いつも俺の鍛錬に付き合ってくれて」
「なんのなんの。ナリ様の鍛錬は我等の鍛錬でもあります故」
「神族の方と手合わせなど、今まではトール様ぐらいでしたので、我等エインヘリヤルにとっては良い経験なのですよ」
エインヘリヤル達は疲れているというのに、ナリに清々しい笑顔で答えていく。
「まっ、俺はまだ神族見習いだけどな」
「けれど、今度の豊穣の兄妹との試合で、正式に神族になれるのでしょう?」
「その日はお祝いですな! 良い肉を用意しましょう!」
エインヘリヤル達はまだ確定もしていないというのに、彼等兄妹が神族の仲間入りを果たした際の宴会の話で盛り上がっていく。ナリはそれがなんとも気恥ずかしいのか、「あはは、皆気が早いって」と頬をかく。
「皆様。お話をされるなら、移動された方がよろしいかと」
エアリエルの言う通り、彼等が話し込んでいる場所は鍛錬場のど真ん中である為、他の鍛錬をしている者達にとっては邪魔に思える。
皆、エアリエルに言われた瞬間にその場から立ち上がり、そそくさと鍛錬場端の休憩場へと移動していく。ナリも休憩場でどかっと勢いよく座り、溜息を一つ。
「ナリ様も、相当疲れが溜まってきているようですね」
ふわふわと風のようにナリの周りを飛んでいたエアリエルも、彼の隣へと座る。彼女の言葉に、「違う違う!」とナリは首を大きく横に振って、肩をぐるぐる回す。
「俺はまだまだ大丈夫! 俺は、フレイに勝って、バルドルさんに勝って、それで最後は父さんに勝たなきゃいけないんだ! こんな所でへばってられねぇよ!」
「はい。ナリ様の願いはよく知っております。知っているからこそ、いつか倒れてしまうのではないかと私は心配になるのです」
エアリエルの言葉にナリは冗談混じりに「ないない」と笑って話を逸らそうとする。
「ナリ様。倒れてからじゃ遅いんですよ? 連日の鍛錬続きで体を酷使して、ちゃんと疲れが取れていらっしゃらないのではないですか? お顔に疲れが見えます。ですから……」
エアリエルは満面な笑みで自身の太腿を叩く。ナリはその意図の意味が分からず、水を飲みながら首を傾げる。それを見たエアリエルは笑顔を崩さずに、それの答えを出す。
「私が膝枕をして差し上げますので、ぜひお休みよ!」
「ぶはっ!」
彼女の予想外の言葉に、ナリは飲んでいた水を驚きのあまり吐き出してしまう。エアリエルもそんな彼の行動に驚き、彼の背中を優しくさする。ナリはようやく落ち着きを取り戻し、彼女に反論を始める。
「いやいやいやいや! そういうことにはならないだろっ! 恥ずかしいわっ!」
赤面し否定するナリだが、彼の言葉は届かず彼女はすっとぼけて「え、なりません?」と首を傾げる。
「枕のように柔らかいですよ?」
当の本人は特に下心なく、ナリを思っての発案だったのだろう。しかし、彼は「そう言うことじゃねぇんだよなぁ……俺の理性のことを考えろって、冬の時にも話しただろうが……」と顔を下に向けてぶつぶつと呟いている。
そんな彼の肩を、エアリエルはガシッと掴む。
「昔一度やってあげたのですから、そう恥ずかしがらずに!」
「は? 一度やったって、それいつのはなっしっ!」
エアリエルは無理矢理彼の身体を自身の方へと引き寄せ、目論み通りにナリの頭を自身の太腿に置く。彼は起きあがろうとするものの、彼女の方が今回は抑える力が異様に強く、起き上がることが不可能となった。
「強制反対! あとなんだよ、さっきの話。そんなの覚えてねーぞ」
ナリは顔を鍛錬場側に向けて、エアリエルの腹部の方を向かぬように話す。その言葉に、エアリエルは口元に手を置き、考える素振りを見せる。そのあと彼女は、「いえ、忘れてください」と笑みを見せた。ナリはそんな簡単にはぐらかせる人物では無い。じーっと目線だけエアリエルの顔を見つめるが、彼女は動じなかった。
そんな彼女に、ナリは溜息を一つ。諦めたのか瞼を閉じ、身体の力をゆっくりと抜いていき、彼女に身体を委ねていく。
「じゃあ、ちょっとだけ。甘えさせてもらうよ」
彼の言葉に、エアリエルは顔に満開の花を咲かせたかのような喜びの表情を出しながら「はい、ナリ様!」と元気良く彼の名を呼び、頭を優しく撫でる。いつもの彼なら「撫でるな!」と叱咤する場面であるのだが、やはり強がっていたものの身体は疲れていたのだろう、既に彼は夢の中へ。
それを分かってか、エアリエルは延々と彼の頭を撫で続けるという愉悦に浸っている。休憩や鍛錬中であったエインヘリヤル達は、そんな彼女の周辺に花が舞っているかのような幻覚が見えていた。
◇◆◇
「《エイワズ》」
世界樹のある森の中で、ナルはエッグセールとフェンリルに見守られながら修行に励んでいた。彼女が呪文を唱えながら杖を地面へ突き刺すと、杖の宝玉が光り地面に氷が張られる。その氷は一直線に的が描かれた丸太の所まで行ったものの、的に当たる寸前で反れてしまう。
「まだ上手い具合に言う事を聞いてくれないねぇ」
と、エッグセールが先程の技に対し批評を送る。ナルは既に何百発もこの技に挑戦しているものの、手応えを出せずにいた。ナルは息も荒れ、杖に少しばかり体重を預けている。
「うん、魔力も底がつきそうなほどやったし、今日はここまでにしよう」
「……。はい、ありがとうございました。また明日もよろしくお願いします」
「うんうん、明日も頑張ろうねぇ」
ナルは乱れていた息を整え、エッグセールに礼を言った。エッグセールはそんな彼女の頭を撫でる。撫でられたナルは、「えへへ」と笑いながら、既に大木の傍で横たわっているフェンリルにも声をかける。
「フェンリルさんも、ありがとうございました。後でブラッシングしてあげますね」
「おう、休んでからでいいぞ」
「……本当、いつ見ても慣れないわなぁ。この会話は」
かの有名な巨人族が造った怪物兵器、冷徹な氷の狼フェンリル。そんな彼が、自分よりも小さな生き物であるナルに、ブラッシングをしてもらっているなど誰が想像出来るだろうか。しかし、これは事実であり、週に一度はこの場所で見られる光景である。
「ナルちゃんも物好きよね。自分も疲れてるだろうに、コイツ、冷徹の氷の狼と呼ばれてるフェンリルにブラッシングをしてあげるなんて」
「えー、そうですか?」
ナルは彼女の言葉を流して自身の鞄から、青いリボンの付いた大きな櫛を取り出す。フェンリル専用の櫛である。
「私は好きでやってますし……。それに、いつもフェンリルさんには魔力に関してお世話になっているので、そのお礼も兼ねてです」
と、ナルは嘘偽りなく楽しげにそう答えた。その表情にエッグセールは溜息を吐く。
「コイツに感謝するだなんて、ナルちゃんぐらいだろうねぇ」
「エッグセールさんは違うんですか?」
「ほら、あたいは一応主と従者って関係だから」
「エッグセール様~」
ニシシ、と笑うエッグセールの名を呼ぶ声が二人の背後から聞こえてきた。その声がする方へと顔を向けると、ムニンが森の中からこちらに飛んでくる姿が見えた。ムニンは二人の傍へと辿り着くと、ナルの肩へと止まる。
「エッグセール様。お迎えにあがりました。オーディン様がお待ちですよ~」
「おぉ、もうそんな時間だったんだね。お迎えご苦労さん。それじゃあねナルちゃん、フェンリル。また明日」
「はい、また」
彼女とムニンの姿が見えなくなるまで手を振り見送ったナルは、フェンリルの傍へと近づきブラッシングを始める。
「フェンリルさん、気持ちいですか?」
「おーう」
気持ちよさげにブラッシングをしてもらっていたフェンリルは、通常時なら出ることの無い緩みきった声で返事をする。
そんな彼に、ナルは「フフッ」と笑みを零す。
「なんだ女。イキナリ笑い出すなんて」
「いえ、すみません。さっきの話の事を思い出して、つい」
「さっき?」
「はい。さっき、エッグセールさんはフェンリルさんの事を冷徹な氷の狼だなんて言ってたじゃないですか? でも、今のフェンリルさんを見てると、そんな二つ名みたいなのは似合わないなって」
「それで笑ったのか」
「はい。嫌だったらすみません」
ナルが謝るもフェンリルは「いいや。別に構わん」と、優しく言った。
「そんな二つ名、俺様を恐れる奴等が勝手に付けただけだからな。俺様にとってはどうでもいい物でもあるし、それで弱い奴等が近寄らないのなら万々歳だ」
そんな彼の言葉にナルは「そうなんですか」と、ニコニコと微笑みを浮かべながらブラッシングを楽しんでいく。そうして、頭から尻尾までブラッシングを終えて専用の櫛をなおしたナルは、ニヤニヤしながら「えいっ!」と自身の身体を先程自分がブラッシングしたばかりの胴体に埋まる。そんな彼女の行動にフェンリルは「ぬあっ!?」と素っ頓狂な声を出す。
「おい女! いきなりは驚くだろう!」
「すみません……とてもフカフカそうで、つい……ふふ、流石、私。仕事、完、璧」
ナルは埋まるその胴体の毛を優しく撫でながら、柔らかな声でそう言った。そんな彼女の言葉にフェンリルは「ぐるる」と喉を鳴らす。
「貴様はそういう事だけは自信ありげな発言をするんだな。まぁ、完璧なのは認めるが」
「……」
「おい、女?」
「……」
「おい。おーい、女。……寝たのか?」
微かに自分の背中から聞こえる寝息に、フェンリルは「やれやれ」と首を横に振る。彼は彼女を起こさぬように、ゆっくりと体勢を変えて自分も寝る絶妙な体勢を取る。ちょうどそこだとナルの安らかで気持ちよさそうな寝顔が見えるのだ。
そんな彼女を見て、今度はフェンリルが「フッ」と少しだけ口角を上げる。
「本当……。元巨人族の兵器がこんな娘に翻弄され、ましてやブラッシングをしてもらう関係になろうとは、あの時の俺様では考えられない光景だろうな」
そうしてフェンリルも、木々の隙間から零れる日差しを身体に感じながら眠り始めた。