6篇 蒼狼の長杖2


 

 ガタゴトガタゴト、と。規則的ながらも騒がしいその音は彼女の頭の中で響き、揺すって揺すって揺さぶりまくる。その動きの気持ち悪さで起きたナルだが、手も口も思い通りに動かせないことに気付く。

 霞む視界に映るのは、薄暗い動く小屋の中のような場所。おそらく馬車か何かだと、彼女に伝わる振動がそうだと主張する。彼女が視線を上に動かすと、鉄格子の小さな窓から月明かりと冷気も差し込んでおり、異様に寒く感じられた。

 その外から女性や男性、馬の声など多くの声が窓から流れ込んできた。思うように動かない手足に視線を移すと、到底女の彼女ではほどけないほどに縄がきつく縛られていた。

「なぁ~。本当に大丈夫なのかなぁ?」

 外から不安を帯びた男の声が聞こえた。

「大丈夫だって。さっきから何度も言ってるだろ」

 今度は強気な男の声も聞こえた。

「まず、俺たち二人だけでヨルムンガンドを捕まえようだなんて無理な話なんだよ」

「フェンリルを捕まえる時にかなり怪我人が出たからね。ヨルムンガンドも集めないといけないのに。無傷がおいら達だけなんて」

 弱気な男が聞き覚えのある名前を出す。

「仕方ないにしても二人は無理だろう? だーかーら。この女を代わりに渡しとけば、王も許してくださるさ。最近、若い少女で遊びたいって言ってたしな。ちょうどいいし、しかもかなりの上玉だ。王に渡す前に俺が遊んでやろうかな」

 ニシシ、と汚く笑う声がナルの背筋を凍らせた。

 彼女の頭の中は、逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ、と悲鳴を上げている。しかし、身体の自由がきかない今。どれだけ彼女の感情が叫んでも、彼女を縛る物が解けることはない。ナルは口で縄を引きちぎる事が出来ず、頭を床へと付ける。その床に、彼女の目は濡れて、一雫の涙がポタリと落ちる。

 彼女の記憶と共に。

 

***

 

 いつのことかは覚えていない。

「や、やめっ、てっ!」

「あぁ? なんて?」

 いや、こんなこと覚えていなくていいのだ。

「いたいいたいいたい」

「はは、化け物でも痛みはあるんだー」

 こんな、嫌な記憶は。

「はなして!」

「離さねぇよ! お前らが来たからこんな世界になったんだろ!? その償いをしろ!」

 いつものように。森で木の実を拾い。いつものように。同じ人間族に虐められる。それが、彼等の日常。

「おい、お前等!」

「うわ、兄貴の方が来やがった!」

「逃げろ! あいつにはもう勝てねぇ!」

「逃げろー!」

「あぁ、くそっ! 逃げんなっ!」

 ナルを虐めていた男の子達は、ナリがやってくると彼女から離れて風の如く走って逃げていった。ナリは本にでてくる魔物のような形相で、逃げていく彼等を睨んでいる。

「大丈夫か、ナル。ごめんな、助けるのが遅くて」

 けれど、彼女に向けた顔は、優しい兄そのものだった。

「ううん。私の方こそ、一人になってごめんなさい。それにまたお兄ちゃんに助けてもらって……ごめんなさい」

「……ナル」

「ん? あたっ」

 ナリは彼女の頭を優しく、けれど少し痛いぐらいに小突いた。

「ごめんなさいじゃなくてありがとう、だろ」

「でも」

「……」

「……ありがとう。お兄ちゃん」

「あぁ」

 まるで、花が咲いたかのように笑うナリ。

 けれど、そんな笑顔を見る度に彼女は悲しくなった。彼は、妹の知らない所でよく怪我をして帰ってくる。夜な夜な起きて街に行き、食料を確保しに行く。その度に人間族と喧嘩をしてくるのだ。

 その度に、彼女は自分に呆れ、悔やんでいた。

 自分が強かったら。兄ばかりにそんなことさせなかった。

 自分が強ければ、兄が傷つくことなんて無かったのに。

 

***

 

 今だってそうだ、と。彼女の目から再び涙が零れる。自分が強かったら、武器があれば、何か少しでも変わっていただろうか。そもそも、自分が強かったら、こんな簡単に捕まえらる事なんてなかったはずなのだ、と。今悔やんでも仕方がないことを、彼女は頭の中でそんな後悔をぐるぐるとさせていた。

「よーう帰ったぞ」

「お前等、よく生きて帰ってこれたな?」

「実はさ~」

 強気な声を出した男がそう言うと、馬車が止まる。詳しく聞こえはしないが、馬車を動か数人増えて楽しそうに話しているようであった。しかし、その楽しげな会話もすぐに終わる。

「あっら〜? もう帰ってたの?」

 ねっとりとした女性の声が聞こえた途端、男達はお喋りをやめ、「ただいま戻りました、アングルボザ様」と凛々しくハキハキと話した。

「おっかえり〜! 二人でヨルムンガンドを捕まえるだなんて無謀すぎるから逃げると思ってたわ〜。で? ヨルムンガンドは? その中にいるの?」

「アングルボザ様、その少し説明を」

「なに? 運ぶ時に切り刻んだとか? それなら大丈夫よ〜。どうせ殺して身体の毒だけ抜くつもりだったし。って、それしたら貴方達とっくに死んでるわね! あははははっ!」

 パタパタとドタドタと、足音がナルの近くまでやってくる。そして。

「こんな所によく入ったわね〜。は〜いヨルムンガンドちゃ〜ん。ママでちゅ、よ……?」

 扉が豪快に開けられ、月明かりがナルのいる中へと入り込む。突然の光によって目を細めながらも、彼女はその扉を開けた人物を見た。

 アングルボザは薄紫の髪は頭の左右上で結われており、頭を動かす度に可愛らしく揺れるような髪型であった。髪と同じ薄紫の瞳は、ナルをその目に穴を開けてしまうんじゃないかと思うほど見られていた。

「あらあらあらあらあらあらあら! なーにーこの子。うふふ、そんな怖い顔しないで〜。うんうん。銀色の髪と瞳だなんて珍しいわね。髪サラサラ〜。目もキレイ〜」

 アングルボザは執拗にナルの顔や身体や髪を触り、しまいには彼女のまぶたを広げ、まじまじと見つめている。その彼女の瞳は、無数の剣をナルの瞳に向けられているかのように、とても狂気を帯びていた。

「ねぇ、これど〜したの〜?」

「アングルボザ様。それはウードガルザ様に献上する物でございます」

 先程この馬車を動かしていたであろう細身の男がそう言った。

「そ〜なの〜? 瞳がすっごく綺麗だから飾りたかったんだけど……まぁ、いっか〜! 私は外が欲しいから、中はウードガルザ様にあげましょ! ……で」

 アングルボザは笑顔のまま私からその兵士へと顔を向ける。

「ヨルムンガンドは?」

 その話題を振られた兵士は「そっ、それがですね」と目を泳がせ口をパクパクと動かす。そんな仲間をみかねてか、隣にいたふくよかな兵士が口を開く。

「ヨルムンガンドの討伐はアングルボザ様が仰ったように無謀でありました。その代わりに、そちらの少女を渡そうということになったのです」

「……ふーん」

 細身兵士はよく言ってくれたと言いたげなにこやかな顔をしてふくよか兵士を見ている。そんな視線を感じたふくよか兵士はウィンクを彼に投げた。しかし、彼女の顔はまだ笑顔が貼り付けられたまま。問題は解決していない。

 ふくよか兵士はもう一度口を開いた。

「そして。その少女は、あのロキと行動を共にしていたようで」

「――ロキ?」

 ロキの名前を出された彼女は一度だけ彼の名を呼び、ナルの方へとくるりと周り、肩を強く掴まれてしまう。

「貴方! ロキと一緒にいたって本当⁉」

「は、はい。そう、ですが」

「ロキ、元気?」

「元気と言っていいか分かりませんが元気なのでは……って、どうしてロキさんの事を」

「だ〜〜〜って。ロキは元同種族なんだもの」

「元、同種族……」

 ということは。ナルは彼女の背後に広がっている景色を見た。景色はうっすらと霜で覆われており、人間族と変わりない、レンガで出来た家が並ぶ。

 彼等は、巨人族。そしてここは、ヨツンヘイム。

「ロキの話は置いといて。と・り・あ・え・ず! ウードガルザ様の所に行きましょうか」

 ナルが自分の居る場所に驚愕し顔色を悪くさせていくのをそのままにし、アングルボザは彼女の脚に縛った縄を外していく。外れた足首には、縄の跡がくっきりと付いていた。

「あらあら大変〜! せっかく綺麗な肌してるのに! これじゃ手も付いてそうね〜。完璧に全身飾りたかったのに〜。自然に治るまで待つしかないわね〜」

 さっきから彼女の口から漏れる「飾る」という言葉については何も聞かない方が身のためだと、彼女の五感がそう感じていた。ナルは入っていた馬車から降り、再び巨人の国の街並みに目を向ける。霜のせいでうっすらとしか見えないが、姿形は人間族とさほど変わらない。ナルは疑問を抱いた。神族も身体的特徴は人間族と変わらないのだが、巨人族はもっと――。

「巨人族だからもっと大きいと思った?」

「っ! はい、そう思いました」

 ナルの顔にそう書いていたのか、心の声が聞こえたのか、彼女の疑問にアングルボザは答えた。

「昔は貴方の想像していたような三メートルの巨人がざらにいたらしいわよ〜。でもだんだんと姿形が時代で変わり、私達巨人族はデカくはないけれど、力はある」

「力、ですか?」

「そっ。ちょっと見ててね〜。太っちょ君、ちょっと失礼するわよ〜」

 アングルボザはふくよかな兵士へ声をかけると、ひょいっと彼を片手で持ち上げてしまう。彼女と彼の体型を比べるなら簡単に折れてしまいそうな小枝と、そんじゃそこらじゃ折れない大木だ。

「すごいでしょ〜。力ってのはこういうことよ〜。巨人族は身体の筋肉全てが異常なの。貴方の腕だって簡単にポキッて折れるんだから〜」

 ともう片方の手でナルの腕を掴む。彼女の骨が軋む音が、嫌でもナルの耳元へと聞かされる。

「だ・か・ら。逃げたりしちゃや〜よ?」

「……はい」

 寒い場所のはずなのに、ナルの背中に汗がつたる。

「あらあらあら〜。怖がらせちゃったかしらね〜、ごめんなさい。それじゃ、ウードガルザ様のところに行きましょう」

「アングルボザ様。その前に降ろしてください」

「あら〜ごめんなさい〜」

 

◇◆◇

 

 城の中へ入り、長い長いレッドカーペットを歩く。歩きながらナルはアングルボザにロキの話を少しした。といっても、彼女がロキに会ってから一週間ほどしか経っていないため、彼の事について話す内容は薄かった。

「ふ〜ん。ロキったらそんな正義の英雄のような真似事してるのね。クズ神族のクズ正義感に影響されたのね〜、可哀想なロキ」

「クズって……」

 神族と巨人族は仲が悪い。

 それは世界が九つの国として形成される前、世界には原初の巨人ユミルが存在した。ユミルは多くの子を産み、巨人族と神族という種族をつくり分けた。しかしユミルは、自分達神族が世界を治めようという野望を抱いたオーディン、ヴィリ、ヴェーに殺されてしまったのだ。

 それから巨人族と神族の仲は悪い。仲が悪いと簡単に済ませているように感じる言葉だが、主に巨人族が喧嘩を売っているだけなのである。そんな中でも、食事や祝い事など交流はしているらしいが。

「そりゃ交流ぐらいはするわよ〜。行事とか参加したいしね〜。祝い事は皆好きだし〜」

「は、はぁ……」

「それでもやっぱり気に食わないわぁ〜! あのお高くとまった感じとかね! あ〜んな高い所に棲んだりして嫌な奴等〜」

 アングルボザは窓の外に見える世界樹を睨んだ。

「私よりも美人がいるとか巨人族の馬鹿どもは言うけど〜嫁にしたいとか言ってるのよ〜腹立つ〜」

 そこは神族だからというより、ただの妬みだろう。とナルは思ったものの、それは心の中に留めておくべきだろうと口にするのをやめた。

「でも。クズってのは間違いじゃないわよ〜。最高神オーディンとか特にね〜! 自分の子供を存在していないみたいに扱ってるんだから」

「……え。存在していないって」

「あら。人間族だからそこまでは知らないのね。表の神族しか知らないんだ。そう、オーディンには二人の息子がいるの。一人は兄の光の神バルドル。もう一人は弟の盲目のホズ」

 ホズの事や彼が盲目である事など、別行動をする前にバルドルから事情を聞いていたナル。しかし、存在していない、という扱いは聞いていなかった。

「あら、その顔。ホズのことは知ってるけど、生まれてからのことは知らされてないのね。オーディンはね、生まれつき目が見えないから、その子の存在を消した。いない者として扱っているのよ〜。父親なのにサイテ〜よね〜! それが最高神とか笑っちゃうわ〜!」

 アングルボザは大袈裟にお腹を抱えながら笑い出す。

「何故、そんな事をしたんでしょうか」

「何故って。……神族って貴方にとってどういう印象を持ってる?」

「うーん……何でも出来そうな感じはします。完璧主義というかなんというか」

「そう。完璧じゃなきゃいけない。けどね〜、盲目という一つの傷がオーディンは気に食わなかったのよ〜。オーディンの息子なら尚更ね〜。だから、一人息子として愛されている光の神バルドルは親から多くの者から愛され、尊まれ、敬られ、崇められている。次の最高神として、完璧な者だから」

 彼女の話にナルは、神族の特に最高神の考える事がよく分からずにいると、アングルボザが彼女の顔を覗き込みながら謝った。

「うふふ、私ばっかりごめんなさいね〜。そうだ! 今度は貴方の話を……って、もう着いちゃったわね」

 気がつくと紅い大きな扉の前に辿り着いていた。アングルボザは先に、その扉を開ける。

「――っ!」

 鼻と口、空気を吸い込む場所を瞬時に塞がなくてはならないほど、この部屋から異臭が溢れだしてきていた。

「ウードガルザ様。完成したのですね」

 兵士やアングルボザは、この異臭に顔色を一つも変えずに部屋の中へと入っていく。ナルもアングルボザに引っ張られて中へと連行されてしまう。部屋はとても広く、彼女の目の前には玉座があったため、この国の王がいる部屋だとすぐに分かった。異様な空気に包まれ、床は白い煙で埋め尽くされている。早くこんな部屋から出たい。そう思っていた彼女であったが。

「……あっ」

 その杖に、目を奪われてしまった。