そして数時間後。
メェー。と間抜けな声で鳴く二匹の山羊、タングリスニとタングニョースト。トールの飼っている動物で、彼女の移動手段の一つだ。その二匹は大きな荷車に繋がれて、ファフニールの家の前で待機していた。
「山羊って遅いイメージがあるんですが」
「あら。それは彼等に失礼よ。まぁまぁ速いんだから。それに食用にもなるしねぇ」
「食用っ⁉」
「食べるのか⁉ 移動に必要なのに⁉」
兄妹がトールの言葉に驚いていると、彼女はフフフと笑みを浮かべながら腰に付けていた金のハンマーを手に取る。
「皮と骨を残しておいて、このハンマーをそれに向かってふればまた生き返るのよ。そうだ! アースガルドに着くのもどうせ一日半はかかるんだし、今日の晩御飯は彼らにしましょうか! この前新しくレシピを」
「「遠慮しておきます」」
「あらそう、美味しいのに」
笑顔で今から運んでもらう山羊の料理を話そうとする彼女に、狂気をひたひたと感じ取った兄妹。しかし、きっとこれが普通なんだろうと深く考えることをやめた彼等は、その山羊達が引く荷車へと乗る。そこへ、別行動をとることとなったロキ達がやってくる。
「じゃ、トール。二人をよろしくな」
トールがロキに向かって親指を立てると、「……ロキさん」と、ナルが寂しげな声音で彼の名を呼ぶ。
「どうした?」
「すぐ、会えますか?」
寂しげな声で発した唐突な言葉にロキは驚きながらも、眉を下げたままの彼女の頭を優しく撫でる。
「あぁ。ちょっと用事を済ませたら、ボク達もすぐアースガルドに向かうからさ」
彼女はロキに撫でられると、下がった眉は上がって穏やかな表情を見せる。ロキは彼女の表情が暗くなくなったのを感じながら、隣にいるナリに目を向ける。ナリは妹が撫でられている姿をじっと見ていた。そんな彼にロキはニヤリと口角を上げ、彼の頭もガシガシと強く撫でる。
「ナリもいい子で待ってろよー」
「ちょ! 撫でるな!」
ナリは頬を赤ながらロキを睨みつける。
「なんだよ。ナルちゃんが撫でられてるの、羨ましそうに見てた癖に」
「そうじゃねぇよ! あーもー! 俺の頭から手をどけろ!」
そんな騒がしい彼等に、ファフニールは高笑いしながらこんな事を言う。
「側からみると、ロキとナリ君達は親子のように見えるな」
「「「えっ」」」
ファフニールの言葉に、他の三人も同意を示すかのように首を縦に動かす。そんな彼等にロキは「そうか?」とその言葉に戸惑いを感じながら、兄妹をチラリと見る。兄妹も彼等の言葉にどう返したらいいものかと戸惑っており、ロキと目が合うと、互いに少しだけ照れ笑いをしたため、ロキも釣られて笑みを彼等に向けた。
そうして彼等と別れの挨拶を済ませ、兄妹達とトールは小人の国を後にした。
トールの山羊二匹は道の無い空を、まるで道があるかのように蹴って走っている。兄妹が思ったよりもスピードはあり、荷車の乗り心地は良くもなく悪くもなく。そして、ニタヴェリルの領域を抜けると、兄妹達の視界に壮大な自然の景色が姿を現す。右側には、世界が出来た時からあると伝えられている氷の壁で出来たギンヌンガガップの淵。左側には、揺れる波が月明かりに輝く大海原。
今まで安全運転であってもファフニールの飛ぶ速度は彼等には慣れず、振り落とされぬようにと必死であったため、あまり景色を楽しんでいなかった兄妹達。だからこそ、目前に広がる広大な景色に二人揃って目を輝かせていた。
そんな彼等を、トールとエアリエルがあたたかな目で見守っている。そんな彼等を見ていたトールが少しだけ目線を動かすと、「あら」と声を出す。トールの視線は、とある海岸に向けられていた。その海岸には、暗くそして遠くてよくは見えないが三匹の二足歩行のある動物が。そして海には――青緑色の大蛇がいた。トールの声で兄妹達も目線をトールと同じ所に向ける。
「何だ、あの蛇」
「とてつもなく大きいですね」
「大蛇ヨルムンガンド。巨人族が造った三大兵器の一つよ」
巨人族の三大怪物兵器。フェンリル、ヨルムンガンド、ヘル。フェンリルは冷徹な氷の狼。ヨルムンガンドはこの世界を一周するほどの体長を持つ毒蛇。ヘルは身体の半分が腐った闇の化身。はるか昔に、巨人族が神族に戦いを申し込んだ際に投入されたが、怪物たちでさえも神族には勝てなかった。そのため最高神オーディンはヘルをニヴルヘイムに、ヨルムンガンドをマーレヴェルンへ追放。フェンリルは他の怪物兵器よりも力が強すぎた為、小人族が作ったグレイプニルという紐で力を抑えられ、狼の魔女がいるヤルンヴィドへと送られた。今後一切、巨人族との接触をしないように、と。
「巨人族の……兵器」
トールの言葉をナルは復唱しながら、再び海の方へと目線を向ける。
「それにしても……ヨルが話しているのは誰かしら……ちょっと寄るわね」
そう言ってトールは進路をその大蛇がいる所へと変更する。だんだんと荷車は降下していき地面へと近づき、最後に海岸の砂へと着陸したときに、サクッという軽い音が鳴る。トールから順に降りていき、大蛇のいる場所へと歩いていく毎にサクッ、サクッ、とテンポよく音が続く。そして、その大蛇の元にたどり着くと、そこに居たのは灰色の毛並みを持つ三匹の狼達であった。彼らは兄妹達に対し、琥珀色の鋭い瞳で睨みつけ威嚇をしてくる。そんな威圧的な態度をする狼達だがヨルムンガンドは。
「ハニーーーーーーーーー!!!!!!」
周囲にハートを巻き散らかし、トールにその大きな顔をくっつける。トールはというと、ヨシヨシとその頭を抱きしめ優しく撫でていた。
「会えて嬉しいよ、ハニー! どうしたの? どうしたの?」
「一昨日会ったばかりじゃないのダーリン。いやねぇ、アンタが誰と喋っているのかが空の上から見えて気になってねぇ」
大蛇はその体格からは想像もつかないほど甘えたな性格なのか、トールの身体にスリスリと頭をこすりつけている。
「ハニー?」
「ダーリン?」
兄妹が彼らのあだ名に驚いていると、トールはヨルムンガンドの頭を撫でながら、ムフフと笑みを零す。
「そっ。アタシ達付き合ってるのよ〜! まっ、馴れ初めなんてのは後でじっくり話すとして」
「別に聞きたくねぇよ」
「拒否権は無いわよー」
ナリが苦い顔をしているのを無視して、トールはヨルムンガンドに話しかける。
「で。この狼達と何の話をしていたの? 珍しい組み合わせじゃない」
「そうでもないさ。兄様関係で少し仲がいいんだよ?」
「その兄、フェンリルですが……」
トールとヨルムンガンドの会話に、三匹のうち身体の大きい狼が割って入る。
「ここ数日、姿を消しているのです」
狼の言葉に、トールは驚愕して顔色をどんどんと青ざめていく。
「姿をって! えぇ、なんで今更!? 今までお利口にしてたじゃない、あの狼!」
「さぁ……。グレイプニルで力は極限に抑えられていますし。何も出来ないはずですが……」
「そうよねぇ。で? 彼はどこにいったか分からないの?」
「彼は六日前、ヨルムンガンドとヘラに会ってくるからと言っていました。けれど、なかなか帰ってこないためヨルムンガンドにこうやって聞きに来たのです」
「そういうこと。でもね、兄様なら四日前に帰ったんだよね。寄り道するような性格じゃないし。ハニーとその連れさん達は見ていない? 大きくて青い毛並みに琥珀色のすっるどい目をした狼を」
皆が首を横に振ると、もう二匹の小狼が悲し気に頭を下げる。大切な仲間が数日も帰ってこないのは、とても寂しいことだと思う。ナルは少しだけ子狼の傍へと寄り、目線が同じになるように砂に膝をつく。子狼達はビクッと身体を跳ねらせ親狼の後ろへと隠れてしまった。
「えっ、と……きっと、大丈夫よ。強いんでしょ? フェンリルさんは」
彼女が笑顔を向けて言うと、子狼達は元気よく頷く。その姿を見たナルは、彼等へ右手を伸ばそうとしたものの、それを左手で強く掴んで首をブンブンと大きく横に振る。そんな彼女の行動に首を傾げる子狼と共にそれを見ていたエアリエルも首を傾げる。
「妹さん、触りたいのでしょうか」
「多分。本とか読んでる時に、狼の毛を触りたい! って言ってたからなぁ。俺は、なんか苦手だけど……」
ナルのもどかしい様子を観察するナリとエアリエル。そんな
彼等の横でぶつぶつと呟いていたトールは「そもそも!」と声を荒げる。
「フェンリルは貴方達に何の話をしにきたの?」
「あぁ、それは」
「ヨルムンガンド!」
ヨルムンガンドの話を遮り、穏やかな海から彼の名を叫ぶ声に皆目線をそちらへ移すと、そこには人がいた。いや、正確には上半身だけは人間のものであるが、水面をバタバタと弾いている下半身は魚の尾であった。ウェーブのかかった桃色の髪に水色の瞳を持つ、人魚である彼女の顔は恐怖に怯えているものであった。
「マリア、一体どうしたの? そんな大声なんか出して」
「逃げて、ヨルムンガンド! 奴等が貴方を――」
「っ⁉ 伏せろ!」
トールの雄々しい声とけたたましい爆発音はほぼ同時だった。周囲には黒い煙が充満し、彼等の視界を無にする。
「――っ!」
ナルは兄の名を呼ぼうとした。しかし、名前を呼びたくとも煙が肺に入ってきてうまく声が出せないでいた。喉も痛く、ナルは喉をさする。
「ナル!」
ナリとロキが彼女の名前を呼ぶ声が聞こえた。自分も二人の名前を呼ぼう、と喉の痛みなど無視して声を出す。
「にぃ――」
◇◆◇
「ナル! おい聞いてんのか! ナル! あぁ、もう。煙で何にも見えねぇ!」
ナリが妹の名を呼んでいると、すぐ彼の隣で人影がゆらりと動く。ナル、と彼は妹の名を呼びそうになったが、その影から「ナリ様! ご無事ですか!?」と声が出される。ナルではないと落ち込み、更に彼の不安は膨れ上がる。その不安と共に、
「っ。エアリエル!」
「はい、なんでしょう」
「こんな煙、風で吹っ飛ばせ!」
「――お安い御用で」
煙で顔は見えないが、きっとその顔はとても楽しそうに笑っているだろうな、とそう思わせるほどに、言葉に弾みをつかせるエアリエル。
刹那――。
「皆さん、その場で踏ん張ってくださいまし!」
砂浜から風が吹き荒れる。黒い煙は四方八方に吹き飛ばされ、俺達の周りにまとわりついていた存在は消えて無くなった。空は夜のまま。しかし、月のおかげで自分の見る世界に光が灯る。
そしてそれは――。
「……ナル?」
ナルがいなくなってしまったことを報せた。