詩に導かれるがまま、ナリは深い深い森の奥へと無心に進んでゆくと、今まで木ばかりの周囲から解放され、開けた場所へと辿り着く。その開けた場所の真ん中には、とある女性が木の幹に座っていた。彼女は両手を胸に置き、ナリを導いた詩を悲哀に満ちた表情と声音で歌っている。黄緑の長い艶やかな髪は高く結い上げられ、ペリドットに輝く瞳がナリの意識全てを吸い寄せる。そんな彼女を見つめながら、ナリは彼女に向かって小さな声である言葉を呟く。
「綺麗だ」
「え?」
「っ!」
彼女は歌うのをやめて、ナリの方へと振り向いた。彼女と目が合ったナリは、意味が無いというのに自分の口を塞いだ。そんな彼の存在に気付いた彼女は「貴方は……」と声を震わせながら、木の幹から立ち上がりナリの方へと一歩、足を踏み出した。その時、風が少し吹き――彼女はナリの目の前へと現れる。
「うわぁっ!」
突然の事で、ナリは驚きで声を上げながらかっこ悪く尻餅をついてしまう。彼女とナリの距離は大雑把に言えば五、六人の大人が両手を広げたほどである。だからこそ、たった一歩でナリの目の前へと普通なら来れるわけがない。しかし、彼女はそれを簡単にやり遂げてしまったのだ。
そんな普通では無い彼女の行動に驚き、彼女はナリの顔をスレスレの所まで近づきながら隅々まで見ている。見知らぬ女性に見つめられているナリは、彼女となるべく目線を合わせぬように、上や下、斜めなどナリの目は色んな所をさまよう。そんな彼などお構い無しに彼女はナリの顔を隅々まで見るのをやめて、彼の目の前で落ち着き、首を傾げながら、ナリにこんな事を尋ねた。
「貴方、私が視えてらっしゃるの?」
「え?」
彼女の視えるという言葉に、ナリの脳裏では彼女がなんなのかという、とある予想がたてられた。
「まさかアンタ……幽霊⁉」
ナリの言葉に、彼女は不機嫌な表情を見せる。
「幽霊? まぁ、失礼な御方。私は風の精霊! 幽霊なんかじゃありません!」
「せい、れい?」
ナリの答えに彼女は不機嫌になりながら、ズイッと彼の顔スレスレまで近づき、自ら精霊であると名乗った。
精霊。自然界を構成する地、水、火、風を司る存在の事。至る所に彼等はいるのだが、彼等を見ることが出来るのは、ごく僅かの者だけ、らしい。
「それよりも、貴方はどうしてこんな所にいらっしゃるの? 髪色や瞳の色は珍しいけれど……人間族、よね? ココは簡単に来れる場所ではないというのに」
「えっと……その質問に答える前に……離れて、くんないかな?」
「あら。それは失礼」
彼女は言葉だけで、まったく悪びれることなくナリから離れた。彼は一回だけ深呼吸をしてから、彼女の質問に答えていく。
「詩が聞こえてきたんだ。それで懐かしい感じがしたから、誰が歌ってんだろって、気になって」
「それで私のもとへ辿り着いたと」
「そういうこと。って、ココって一体どこなんだ?」
「……本当に何も知らないんですね。まぁ、ココの存在は大っぴらにされてはいませんし、仕方ありませんが。けれど、どうしましょう」
ナリは彼女の質問に答えたというのに、彼女は彼の質問にはすぐに答えようとはせず、チラチラと目線を暗い森へと向け、何かを気にしている様子を見せている。
しかし、ナリは彼女が質問に答えないことに対して気分を悪くすることなく、彼の頭の中はここまでの疑問が溢れていた。ココは一体どこなのか、なぜ自分は彼女の詩に懐かしさを感じたのか。そして、どうやってここまで来たのか。
そんな自身の異常な事態に困惑しているナリを。
「さっ、行きますよ」
「えっ、ちょ!」
精霊は女性の力とは思えないほどの腕力で、尻餅をついたままだった彼を引っ張り上げ、森の中へと早足で歩き出していく。女にされるがままのナリは、必死でその早足のスピードについていきながら、彼女へと声を大にして問いかける。
「なぁ! なんでそんな速く行くんだ?」
「なんでって。彼等が貴方を狙っているから」
「彼等? 狙ってる、って――っ⁉」
精霊にそう言われた瞬間、ナリは背筋の凍るような視線を背後から感じ取った。チラリと目線だけを後ろに向けると、木々の陰から無数の目がナリを見ていた。女と似た色の目や、他に赤、青、黄の色をした目。すぐにナリはそれらから目を逸らし、彼女を問い詰める。
「なんだよアレ!」
「私と同じ精霊達。貴方という視える者がやってきたから、出てきたのでしょう」
精霊の彼女が話した、視える者という言葉にナリが首を傾げていると、女がクスリと笑った。
「貴方、今の今まで自分の持つ力をなにも分かっていなかったのですね。まぁ、精霊がいるのはこの世界では此処、ランドアールヴァルのみですから、当然でしょうけど」
ナリがまだ女の話にピンと来ずにいるのに気付いた彼女は、一度咳払いをして説明を始める。
「貴方の力は私達精霊にとって、とても大切な存在。精霊がいるという存在意義を見出す者。貴方という存在がいれば、私達の力は強まりますから。なので、あそこで見ている者達は貴方が此処から出ていかないように、捕まえるタイミングを見計らっているのですよ」
「へ〜……へぁ!?」
女の声のトーンをそのままにして平然と最後に話した内容は、ナリの声は驚きで上ずってしまう。
「捕まえる!? なんで!?」
「だから、先程も言いましたでしょ? 貴方といる事で私達の力は強まるのです。なので、傍においておきたいと思うのは、当然の考えかと」
彼女の説明を聞いて青ざめるナリ。しかし、そこで新たな疑問が浮かび上がった。
「じゃあ……なんで、アンタは俺を助けてくれるんだ?」
その問いかけに彼女が「……それは」と口を開きかけた瞬間、立ち止まって頭上を睨む。女の行動が気になり、彼女と同様にナリも自身の頭上を見てみると、先程までナリ達を見ていた無数の目が無くなっていたのだ。
ガサッ、と物音がナリの背後からしたため、精霊達が来たのかと身構えながら振り向いた。
「……なん、だよ。アレ」
そこには、黒い物が赤い目を光らせてうようよと動いていた。レムレス。そいつは、黒いもやで女の姿をかたどっている。その黒いモヤが揺れ、赤い瞳を妖しく光らせながら「カエロウ ネムロウ」などと呟いている。
「アレは……?」
「俺もあんま詳しくないんだけど、レムレスっていうらしいんだ。この夜だけの世界になった時に現れた化け物、らしい。でも、あんな人型に似た形だなんて、聞いてない」
ナリはどこかで見たような顔のシルエットだと、その黒いモヤに目を凝らす。それは動いて判別しにくいが、顔の横の部分が尖ったものがあるかのよう見えた。ナリの顔で現すなら、そこは耳の部分だ。
「まさか、妖精族?」
「気分の悪くなる匂いをさせていますわ、ねっ!」
ナリが観察している間に、レムレスは二人の所へと口を大きく開けて突っ込んでくる。女に抱えられてナリは横へと移動し、レムレスの口をかわす。獲物を取り損ねた口は、閉じる時に鉄と鉄がぶつかりあうような音をたてた。
「下がっていて」
彼女はナリの一歩前に出て、右手を前に突き出す。するとその右手から緑の光の筋が無数に現れ、ある形へと造形されていく。光の筋の動きが止まるとその右手には弓が、左手には光の筋で出来た矢を持っている。弓と矢を合わせ――。
「スピーリトゥスウェンティー」
矢がレムレスに向かって放たれた。レムレスは動く隙を与えられず、その胸へと突き刺さる。刺さった瞬間、レムレスの口から黒いモヤが吐き出され、膝から崩れ落ちてピクリとも動かなくなった。彼女はそれを見届け、安堵の溜息をつく。
「これで大丈夫でしょうか?」
「俺に聞かれても……多分、大丈夫じゃないか? 動かないし。それにしてもレムレスがいるなんて。早く妖精族の皆に言わないと」
「では急ぎましょう」
彼女が先に走り出し、ナリもその後を追った。
「イタイ イタイ イタイヨ」
◇◆◇
道の無い茂みをかきわけていくにつれて、見覚えのある暖かな光がチラリと見える。あと一歩、ナリは足を大きく踏み出し。
「着いた!」
「「えっ」」
妖精の国に辿り着いた。その瞬間、ナリの目に飛び込んできたのは、目を丸くしてナリを凝視しているナルとヒイラギの姿であった。
「兄さん? なんでそんな所から出てきてるの? さっきまで後ろにいた……よね?」
ナルは自分の後ろとナリの顔を交互に見て戸惑っていた。彼も妹がなぜそんな事を言っているのか分からず、隣にいる女へと助けを求めると、彼女はニコリと微笑んで説明を始める。
「アチラとコチラでは時間の感覚が違いますので、向こうで過ごした時間はこちらでは数秒ほどしか経っていません」
彼女の説明を聞いてナリが納得していると、ナルが「兄さん?」と、恐る恐る彼を呼んだ。
「その……誰と話してるの?」
彼女の質問に、ナリは焦りを見せながら再び横にいる彼女の方へ振り向くと、彼女はクスクスナリを見て笑っていた。
「私の姿は貴方にしか視えていませんよ? そう、話したじゃありませんか。それよりも、あの黒いモヤのことを先に話さなくてもよいのですか」
「あぁ、そうだっ」
「ミツケタ」
「っ⁉」
冷たい声がナリの耳に届き、勢いよく背後を振り向くと、そこにいたのは、先程女が倒したと思ったレムレスであった。レムレスの手がナリの首元を捕らえようと近づいてくる。ナリは腰の剣を抜き、近づいてくる腕を切った。一瞬の出来事で、咄嗟の行動で、ただ一つだけ彼が感じたのは、生々しい感触ただ一つ。切った腕からまたも黒いモヤが吹き出し、レムレスは耳を塞ぎたくなるほどの悲鳴を上げた。
「逃げるぞ!」
ナリはナルの手を掴み、レムレスから距離を取る。先程の悲鳴で、他の妖精族も何事かと騒ぎ始めている。
「おい! 早く他の奴等に」
「シオン様」
「は?」
「あれは、シオン様だ」
「知り合い、なのか?」
ヒイラギは口をガクガクと音をたて、見るからに怯えていた。冷や汗も尋常じゃないほど流している。
「長の娘さんだ。一昨日から行方不明で探していたんだ。でも、なんで、なんであんな御姿に……」
「なんでかは知らないけど、今は他の奴等に逃げるよう言わなきゃ!」
「きゃああああああああああああああああ」
悲鳴が聞こえた方を振り向くと、獣の姿を持った別のレムレスが男の妖精族を襲っていた。その妖精族には、既に首は無かった。その悲鳴を合図に、レムレスが水のように茂みから湧き出て、アルヴヘイムはまばたきもしないうちに、阿鼻叫喚の地獄になってしまった。
いくつもの悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴。悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴、悲鳴。
ナリの目に映る景色が赤く染まっていく。ナルが彼の腕を強く握り、精霊の女が必死の形相でナリの肩をゆすりながら何かを言っている。けれど彼の耳には、それさえも聞こえないでいた。ナリの頭が逃げろ、逃げろと叫んでいるというのに、いくつもの悲鳴が刃となり、彼の身体へ突き刺さって動けなくさせている。
「ナリ! ナル!」
やっと、彼の耳に声が聞こえた。彼等を呼ぶ声が聞こえた瞬間、ナリの体に突き刺さっていた恐怖という刃が砕け散り軽くなった、そんな不思議な気分を味わったナリはその声の方へと振り向くと、そこにはロキが走ってきている姿があった。
「ロキ!」
「君等、大丈夫か? 怪我してないか?」
「大丈夫。でも――」
ナリが、今後ろで起こっている惨劇について口にしようとするも、それをロキが止める。
「いい。見るな。このまま振り向かず講堂へ逃げるんだ。君、ここの奴だろ? コイツ等の事、頼むぞ」
ロキはヒイラギにそう言って、兄妹の背中を押す。
「ロキは――」
「ボクは、やることがある」
ロキの手から鮮やかな炎が現れる。
「走れ。ナルちゃんを守れよ」
「……あぁ」
兄妹が走り出すと、後ろからレムレスの悲鳴らしきものが聞こえてきた。他に、妖精族の男達の勇ましい雄叫びや、あのフレイとフレイヤが指示を出す声もナリの耳に入ってきていた。
皆が戦い始めたのだ。なら俺も、自分も出来ることをやらなければ、と彼は自分の拳を強く握り、まだ恐怖心が消え去っていないのか、上手いこと動かない足で、彼は地面を力いっぱいに蹴った。