1篇 終わらぬ夜1


 空は、虚ろの時を刻んでいる。

 星一つ存在しない濃紺の空には、嘲笑うかのように妖しく光る月がこの鬱とした大地を照らしていた。

「こっちだ! 速く走れ! 追いつかれるぞ!」

 冷たい空気を纏う大地の片隅。まっ黒に茂った森の中を、簡素な胴部分のみの鎧を着た三人の男達が、白い息を何度も吐き出しながら走っていた。皆たくましい身体つきをしているというのに、その者達は酷く怯えた表情で何かから必死に逃げているようだ。

 森全体の葉っぱが大きく揺れた。風など吹いていないというのに。

 そんな現象に彼等は身体を震わせながら、「もう無理だ」と一人が弱音を吐き、足を止めてしまう。それに釣られ、残り二人も足を止める。虚ろな目で空を眺める者や、両膝をつき「我等を護りしオーディン神よ、世界樹よ。どうかどうか。お助けください。お助けください。お助けください」と震える身体で信仰する神へと祈りを捧げる。

 しかし、その祈りは届かない。

 再び葉っぱが大きく揺れ、今よりも一層冷たい空気が周囲に漂い始めると、何もないはずの暗闇がぐにゃりと歪む。それは、男達を囲むかの様にどんどんと歪んでいく。その空間からは黒いモヤが現れ、全ての空間から出終わる、と。


「カエロウ」


 血の様に赤い無数の目と冷たい闇の広がる口が、彼等を飲み込んだ。


◇◆◇


「……エインヘリヤル三名、消滅を確認」

 金の首飾りを付けた烏は、男達が謎の黒いモヤに喰われる姿をそこから遠くの木の陰から見届け、一礼。翼を大きく羽ばたかせ、空からのびる根っこに沿って一直線に飛行する。烏は飛びながら根っこの様子を確認する。根っこは枯れて、いつ崩れてもおかしくない状態であった。それは他二つの根も同じであり、遠目でも分かるほどに弱っている。

「世界樹様。なんとおいたわしい……」

 九つの国で構成された大陸〈ユグドラシル〉は空からのびる根によって支えられている。根の持ち主はこの世界の始まりを知る大樹〈世界樹〉が存在している。

「しかし、そんな姿になられてもこの世界を支えてくださる貴方様に、我々神族は必ずやお答えいたしますわ。この終わらぬ夜に、再び夜明けを迎えさせる為に」

 烏は濃紺の空を睨みつけ、空中に漂う分厚い雲を通り抜ける。彼女の目の前に現れたのは空を覆い尽くす程に巨大な世界樹。しかし、枝先に生えた葉っぱは根と同様に枯れている。そんな世界樹の目の前には、神族の棲む神の国〈アースガルド〉が広がっている。神族が拠点とする純白の神殿〈ヴァルハラ〉では神族が他種族の平和を保たせながら悠々と暮らしている場所。しかし、そんな穏やかな場所でさえもこの夜のせいで暗鬱な空気が漂っている。

 烏は神殿から漏れる空気に感傷的になりながらも、神殿の最上部へと向かう。そこのバルコニーには金色の凛々しい髪と髭、神族皆が纏う白の軍服を着た男が立っていた。

「ただいま戻りました、オーディン様」

 烏が彼、最高神オーディンの肩にとまる。そんな彼女に「ご苦労、フギン」と労いの言葉をかけながら、彼女の頭を撫でた。その時、黒の眼帯で彼の偉大さが強調されるなか、左眼に残る金色の瞳は優し気な輝きを放っていた。フギンは気持ち良さそうな緩んだ顔をするも、すぐに顔を引き締める。

「オーディン様。たった今、ヴィークリーズで警備をしていたエインヘリヤル三名が消滅しました」

 報告を聞いたオーディンは、目を伏せ哀悼の意を表す。数分間の黙祷を終えたオーディンは、彼の命令を待つフギンに声をかける。

「フギン。今、休息を長く取っているのはロキだ。彼をそこへ向かわせなさい」

 オーディンの命令に「かしこまりました」と返事をしたフギンは、彼の肩から離れて神殿の中へとロキを捜索しに飛んでいく。


◇◆◇


 フギンがロキを捜索しに、大広間へと辿り着く。そこはいつも神族達が集まり雑談など賑やかな場所なのであるが。

「そちらの部隊の被害はどうだ」

「こちらもそちらと同じさ。部隊の半数を喰われた」

「どこも同じだな。まったく。こうも戦い続きでは身が持たん。ただでさえ、精神がまいっているというのに」

「それはこの大陸にいる全ての者が感じている事だ。弱音など吐いてどうする」

「分かっている。戦闘に慣れていない種族や不安を抱える者達をを助け、支えるのが我等の役目。そう、頭では分かってはいるのだが……」

 そこは鬱とした重い空気が漂っていた。

「上に立つ神族達までもが心を蝕まれている現状は見るに耐えない」

 ユグドラシルの頂点に立つ種族が弱音を吐くという状態に、烏は哀感を帯びた声で呟く。

「それは余も同感だな」

「ほんと、やんなっちゃうわよねぇこの空気は」

 フギンの気持ちに同感する声により彼女がそちらを振り向けば、そこには茶色の髪と瞳のよく似た顔の男女がいた。

「フレイ様、フレイヤ様」

 神族の中でも上位の強さを持つ、豊穣の神フレイとフレイヤ。フギンが彼等の名を呼び頭を下げる。

「フギン。ミッドガルド付近の様子を見に行っているとムニンから聞いていたが、なにも無かったか?」

 フレイからの問いかけにフギンは口をぎゅっと閉ざした。その表情から察したのか、「そうか」と彼はそれ以上の事を聞かず、表情を曇らせたまま先程フギンが見ていた神族の様子を見つめる。

「神族として弱音を吐くなどあってはならない。だが、吐いてしまいたくなるのも仕方があるまい。何もかもが唐突だったのだから」

 二ヵ月前。世界は突如として夜の闇に閉ざされた。清々しいほどに青い空は濃紺の星一つない夜の空へと塗り替えられ、さんさんと輝いていた太陽は妖し気に嘲笑うかのように輝く月となる。その光景は、異常だった。いつになっても朝は来ず、自然やここで生きる者達の感情も夜の様に荒む。なぜこんな世界になったのか。原因は未だに不明。あのこの大陸で一番の知識を持つオーディンさえも、この現状の解明に辿りついていないのだ。

「こんな終わらぬ夜の世界など、心が弱ければすぐに飲み込まれてしまうからな。まだ、神族であるというプライドを捨てず逃げずにレムレスと戦っているのだけでも褒美ものだ」

「レムレス。そう呼ぶことにしたんだったわね、あの黒いモヤの化物を」

 終わらぬ夜となった世界で、とある化け物が生まれた。それがレムレス。黒いモヤをまとい、赤い瞳で生者を見つけ、全てを喰らう。生きる者すべてに怨みでもあるかのように、神出鬼没にユラユラと命を狙っているのだ。神族、エインヘリヤルや戦乙女はレムレス討伐や戦うことに不慣れな種族の国周辺の警備をしているのだ。

「フレイ様とフレイヤ様みっけ! あっ、フギンもいる!」

 こんな鬱とした空気の中で、陽気な声が彼等の名前を呼んだ。名前を出された彼等が声のした方へと顔を向けるとフギンと同じ金の首飾りを付けた烏とそれを肩にのせたさらさらな黒髪の右腕の無い男が慌てた様子で近づいてきた。

「ムニン。それにテュール様。どうされたのですか、そんな急がれて」

「やぁ、フギン。実は、豊穣の神達に用があって」

 テュールはフギンに挨拶を交わしてから、優し気な青緑色の瞳は豊穣の兄妹を鋭く睨みつける。そんな彼の様子に彼等は(驚き、自分達がなにをしてしまったのだろうかと考えを巡らせた)。

「な、なによテュール! 報告書はちゃんと出したでしょ!?」

「それが不備ありありなんだ。今から直しに来なさい」

 テュールは勝利の神という軍神でありながら、神族達からの国の警備状況やレムレス討伐時の被害を記した報告書の管理もしている。

「こういう時ぐらい、そんな不備どうだっていいだろう」

「そうよ。私達戻ったばかりなんだから休ませて頂戴よ」

 二人はまるで駄々をこねる子供かのように文句をつけるも、テュールはそれに耳をかさなかった。

「こういう時だからこそ、どんな事でも気を引き締めていないとダメだ。さっ、おいで」

 テュールは豊穣の兄妹の後ろへと回り、左手で背中を叩いて行くように促す。そんなことをされ不機嫌になる彼等だが、抵抗するのは諦めたのかそのまま彼に素直に従って足を動かした。

「ねぇ、フギン。オーディン様への報告は終わったの?」

「えぇ、終わりましたよ。なので今はロキ様を……あっ、そうだ! あの、御三方! 聞きたいことがあるのですけれど!」

 ムニンとの話で自分の役目を思い出したフギンは、テュールと豊穣の兄妹の目の前へと飛ぶ。突然フギンが目の前に現れ、三人揃って肩を跳ね上がらせた。

「あっぶないなぁ。フギン、どうしたんだ?」

「はい。少々お聞きしたいことがありまして……ロキ様が今どちらにいらっしゃるかご存知ありませんか?」

 ロキ。その名を聞いた瞬間、三人の顔が嫌悪で歪む。