9篇 夜明けの先の、少しの幸せ2


「もういいんだ、シギュン」
 その言葉を聞いた彼女は、まばたきもせずロキの緑の瞳を見続ける。
「なにが、もういいの?」
 彼女は笑顔のまま首を傾げ、何も分かっていないふりをする。
「この世界がだよ」
「どうして? 幸せでしょう?」
「あぁ、幸せだ。願っていた幸せだ、ボクも君も、一緒に願っていた幸せ。でも……これは、全部偽物なんだろ」
 無言。彼女は目を細め、ロキの手を握る手に力を入れる。
「偽物でも、本物の世界よりはいいでしょう? この世界には貴方を嫌う者も居ない、兄妹だって生きてる、ホズさんやバルドルさんだって、いきいきしている。この幸せな世界にいれば貴方は、私達はずっと一緒よ。ずっと幸せな――」
「シギュン。駄目なんだよ、それじゃ」
 ロキがシギュンの言葉を遮ると、彼の手を握る彼女の手が震える。
「……貴方は、幸せになりたくないの? どんなやり方をしてでも、幸せをずっと続けていたいと思わないの?」
 幸せは、続けていたかった
 兄妹と出会ってから感じた想いは、自分の子供の傍にいたいという感情。
 頭を撫でて嬉しく思うのも、胸が踊ったのも、愛する子供だったから。
「私は!」
 シギュンは瞳を涙で濡らしながら、ロキに詰め寄る。
「私はずっと幸せでありたかった! あんな……あんな終わり、私は認めない! だから私は――」
「それでも!」
 大きな声でありながらも、言葉一つ一つが震える。
「……君の考えには賛成できない」
 こんなやり方は間違っている。
 虚妄の幸せで塗り固めた箱の中で、一生を過ごすのは、断じて幸せなどという輝かしいものではない。
 だから――。
「《《もういいんだ、シギュン。終わりにしよう、こんな世界》》」
 ロキの言葉と共に。
 彼女の肌に、ヒビが走る。
 彼女の銀色の髪が穢れを受け入れぬ純白へ、瞳は穢れを知り尽くした血のように赤くなる。雲ひとつ無い青空には硝子のようにヒビが入り、その隙間から瑠璃色の空が見えていた。
 彼女の作った虚妄の世界が、壊れ始めている。
 先程までいた神族達はいなくなり、ここにはロキとシギュンだけがいた。
「どうして」
 彼女が瞳に涙を浮かべながら、そう問いかけた。
「どうしてそんな事を言うの?  私が嫌いになった?」
 涙が流れる。その涙が、肌の亀裂に沿って流れていく。
「嫌いじゃないよ。愛してる。ずっと」
 シギュンはロキの言葉を聞いて、顔をくしゃくしゃにしながら、彼の手を絶対に離さないと言わんばかりに、強く握りしめる。
「私も愛してる。貴方も、子供たちも、貴方が愛していたかった友さえも。私は愛している。愛している、のに……もう愛してはいけないの? 幸せを願ってはいけないの? あの先を、日常が、幸せが、全て崩れなかったその先を見ることを、願ってはいけないの? 少しの幸せでよかったのに」
 愛しい人が苦しむ姿を、ロキは見たくないと目をギュッと瞑ってしまうもも、歯を食いしばり、彼女の名前を呼ぼうと口を開く。しかし。
「……こんな、こんな苦しい思いをするのなら。この世界さえも、貴方達に受け入れてもらえないのなら……」
 変えられなかった運命も、哀しみも、苦しみも、怒りも、憎しみを見ぬように。そして、いつまでも続いてほしいと願って願って願い続けた幸せさえも、見たくないといいたげな光の灯らぬ瞳で、シギュンは。
「貴方を、愛さなければよかった」
 生きた日々を否定した。
「……そんな事、言わないでくれ。シギュン」
 ロキ自身の心に亀裂が走る。そんな感覚が、彼の中で感じていた。心が苦しい中、彼女への言葉を搾り出す。
「君に出会えて、ナリとナルに出会えて、家族になれて、愛することが出来て、ボクは……幸せだったよ」
 繋ぐ手に、彼女の涙が零れ落ちる。
「……なんで、どうして、いくら輪廻があろうとも、もう貴方達とは、会えないのに。この四人で家族になれることなんて、ないのに」
 また、彼女の身体と空のヒビが広がっていく。
「……シギュン。これはボクの我儘だけれど」

 乱雑に継ぎ接ぎさせられた世界に、未来は存在しないけれど。

「次もまた、ボクと愛し合ってくれないか? ナリとナルと一緒に」
「……そんなの、無理よ。本当に貴方は、頭がおかしいのね」
 シギュンは呆れ顔で言うも、その口元は穏やかな笑みを浮かばせている。
「そこまで言わなくてもいいだろ? でも、信じてよ」

 まだ語られていない物語があるのなら、その物語の白紙の頁に書いてやろう。

「「また一緒になれるの/か?」」
 ロキとシギュンの両隣に、どこかへ消えていたはずの兄妹が現れ二人の顔を覗く。
 ロキが「あぁ。きっとな」と頷けば、兄妹はとびっきりの笑顔を見せる。すると、彼の真後ろに何かの気配を感じ、振り向く。
 瑠璃色の空に広がる亀裂から、眩い曙色の光が差し始めていた。
 そこにはバルドルなどの神族達、他にファフニールやエアリエル、フェンリル達がいた。
 そこにナリとナルも走って行く。
 夜明けが近い。
「……今度は信じていいの?」
 シギュンは彼の手をまだ離さずに、掠れた声で聞く。
「うん。信じて。今度こそ君の元に帰るから。だから今だけは――」
 君に、君達に、最後の言葉を。
 笑って言おう。





「さよなら」